はんわしが自宅の周りをぐるっと散歩しているだけで、すぐに数軒の廃屋を見つけることができます。その多くは古い木造家屋で、デザインや様式からおそらく昭和30~40年代、あるいはそれ以前に建てられたものだと思われます。
中には梁や柱が傷んでいるのか、傾いたり、屋根が大きく波打っているものもあります。これらの家の隣家にとっては、台風や地震のことが気がかりであることは容易に想像できますし、以前このブログに書いたように、わし自身も同じような経験をしたことがあります。(その時のブログはこちらを)
成熟社会に対応するためには今までのような拡散志向の都市経営でなく、限りがある資源を一定のエリアに集中投資する「コンパクトシティ」の考え方が重要となることは明らかです。(もちろん、工場とか迷惑施設のように郊外立地がふさわしいものも残り続けるでしょうが。)
一方で、このようなコンパクトシティの考え方は、商店街活性化とか都市計画の「業界」ではもうずっと以前から提唱されていた考え方です。これが進まない 大きな原因も、中心市街地になればなるほど土地や建物の権利関係が複雑で入り組んでおり、再開発などに対する地元の合意がなかなか取れないことにあるのも、いわば常識です。
最近あらためて思うのは、法律制度には「来たるべき社会」とか、「社会の活性化」といった考え方を取り入れていないのではないかということです。
もちろん、憲法のように普遍的な社会理念を高らかに掲げるものは確かにあります。また、土地基本法とかの「なになに基本法」といったたぐいの法律も、その分野での理念とか理想を掲げた法律です。
しかし憲法はともかく、実際に直接個々の法律紛争に適用される民法とか商法、民事訴訟法などは、実務的で価値中立的な法律であり、総則では法の理念がうたわれているものの、法律自体からは「この法は、日本がどのような社会であることを想定しているのか」をうかがい知ることはできません。
うまく言えないのですが、たとえば医療保険や年金などの社会保障制度が右肩上がりの人口増と経済成長を念頭に制度設計されているように、それなら民法は、いったいどんな社会を念頭に置いて制度設計されているのか、ということです。
近代の契約法の前提は、法の主体である個人や法人は合理的な存在で、自己の利益を最大化するために行動するということです。当たり前ですが、これは事実で はない(人間は不合理な存在で、往々にして利他的な行動もとる)ので、それを補完するためにさまざまな社会的な立法が行われました。
冒頭の話に戻りますが、しかし、町の真ん中で放っておかれている廃屋についてはどうでしょうか。廃屋もモノである以上、誰かが所有しているので、それを利害 関係を持つ誰かが、自分で費用を負担して調べ上げ、真正な所有者に処分を求めればよい、というのが現在の民法の考え方です。
それは、
・いかなる財産でも(廃屋でも)価値はある
・隣家は自分の権利は(廃屋が自分の敷地に崩れ落ちてこないように)自分で行使しなければならない
という大原則があります。
しかし、21世紀の今、モノに価値はなく、自分の権利を行使しない(能力的にも経済的にも、意欲の面でも)人はたくさんいます。まさに民法が想定している社会とは異質の世の中になっているのです。
これは、「廃屋処理法」といった特別法を作れば済む話とは、少々次元が違うように思います。今の日本の現状を打破するには、法律面でも何らかの革新が求められているように思います。
0 コメント:
コメントを投稿