2012年11月5日月曜日

忘れられた英雄

 先週末は岐阜市の金華山に観光に行ってきました。山頂にある岐阜城にはロープウェイで行くことができ、空中からは岐阜のまちと、その中を蛇行して流れる長良川を見下ろすことができます。
 麓にある岐阜公園では菊の展示会が開かれており、園芸家自慢の美しい菊がたくさん展示されていました。菊人形というのは、はんわしは犬神家の一族とかを思い出して何だか美しいと思えないのですが、年配の方を中心にファンというか、マニアというかはけっこう多いようです。


 岐阜と言えば、PRに織田信長を使い倒していて、この菊人形も織田信長と森蘭丸でした。
 しかし、わしの目的は菊ではありません。この写真の右に写っている銅像の人物です。


 わしが子供の時は100円札という紙幣があり、その肖像は板垣退助でした。
 板垣は幕末から明治に活躍した志士、そして政治家です。土佐藩出身で、高い家柄に生まれたにもかかわらず、当時としては珍しい身分こだわらない平等思想の持ち主だったと言われています。
 また、戦争指揮が天才的にうまく、官軍では東山道先鋒総督府参謀として従軍し、甲州、江戸、東北を転戦しました。
 明治維新になると、その功績から政府の要職に就きますが、政府と路線が対立して下野し、政治家となってからは日本初の政党「自由党」を結党。政府の専横を批判して民衆の権利擁護と議会制の導入などを唱える自由民権運動を指導した人物としても有名です。
 官尊民卑、封建的な秩序が当たり前だった明治初期に、元勲の地位にいた人がこのような過激な主張をしたのは驚嘆すべきことですし、19世紀の世界中を見ても極めてまれな政治家だったのは間違いありません。

 しかし、一番高名なエピソードは、明治15年、ここ岐阜で自由党総理として演説していたときに暴漢に刃物で刺され、その時に「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという逸話でしょう。(もっとも、これは後の創作であり、実際には「痛いから早く医者を呼べ」と語ったのが真実のようですが。)
 
この由来から、日本政治史上、傑出した人物 板垣退助の銅像が岐阜公園に建てられたわけですが、何と驚くことに、彼の銅像は菊人形の小屋の、ヨシズ掛けのその後ろに追いやられているのです。バケツ置き場になっているのです。立て看板置場にもなっています。
 英雄に対して何という非礼でしょうか!


 もし仮に、この銅像が坂本龍馬だったら・・・。間違いなく、まずこんな扱いはされないでしょう。菊人形が反対に追いやられ、記念写真用の看板でも設置されているかもしれません。

 八幡和郎氏も言うように、坂本龍馬は明治末期までほとんど一般には知られていない人物でした。幕府、薩摩、長州など利害の対立するセクターに太いパイプを持つ、政商、もしくはフィクサーのような存在であり、権力に危ういほどに接近して泳ぎ回る胡散臭い人物だったのです。
 有名な船中八策も、土佐藩重臣だった後藤象二郎が取り上げたために世に出たのであって、坂本自身は何もなさないうちに、若くして殺されてしまったのでした。

 一方で、板垣や後藤は生き残りました。
 そして明治になると政治家として、現実というしがらみに絡み取られ、泥まみれになります。
 板垣とて、自由民権という開明的な思想の持ち主でしたが、西郷と共に征韓論を唱えましたし、政治家となった後は政府に懐柔されて洋行や大臣ポスト、爵位などさまざまな誘惑に陥っていくことになります。
 しかし、彼は名を成しました。
 少なくとも、昭和40年ごろまでの大蔵省と日銀は、板垣こそ紙幣の肖像にふさわしい人物だと考えたのです。決して坂本ではありません。

 不思議なのは、そのように現実と格闘した板垣退助がすっかり忘れ去られ、小説家が創作した虚像が実像と入れ替わっている感さえある坂本龍馬が、なぜだか人々の人気を博していることです。
 これは、結果よりも、それに至るまでの道程とか、一所懸命さとか、動機の純粋さとかの青臭い理想に酔いしれるのが好きな日本人の精神年齢の低さかもしれません。あるいは、若くして命を落とし、人々の想像の中だけに生き続ける坂本の永遠の若さへのシンパシーという日本社会の高齢化なのでしょうか。

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