2013年10月31日木曜日

笑顔のないレストランで考えた


 今日は出張していたので、お昼はとあるファミレスに入りました。
 忙しいピークはもう過ぎている時間のように見えたし、わし一人だったのですが、店員さんが誰も出てこないので立って待っていると、不思議なことに気付きました。

 よく見ると、店員さんは何人かチラチラ歩いているのですが、誰ひとりこちらを見ず、いや、正確にはファミレスのエントランスによくある例のピンポーンというチャイムが鳴っているので来客に気がつかないはずなどないのですが、気がつかないフリをして、ひたすら着席したお客さんたちに料理を運んでいます。

 そして、料理を運びおわると、さっとバックヤードに戻ってしまうので、もうまったく、こちらから声を掛けるヒマもありません。わき目も振らず、というのはまさにこのことでしょう。


 仕方なくリストに名前を書いて、座って待つこと2~3分。やっと応対に出てきた女性の店員さんは、失礼ながら数年前にわしが行った中国のレストランを思い起こさせるような、「無表情」としか言いようのない雰囲気で現れ、
「お一人様ですか? おタバコはお吸いになりますか? ではこちらへ」
 と機械のように一人でしゃべってスタスタと先導し、
「今日のランチはなんちゃらですが」
  「じゃ、それお願いします」
「ドリンクバーはどうされますか?」
  「それはけっこうです」
「ではスープはあちらでおとりください。お替り自由です。お水もあちらでお願いします。」
と、また音声を自動再生して、スタスタとバックヤードに引っ込みました。やはり表情がまったくありません。

 ランチ500円という看板に釣られて入ってしまったわしが愚かだったので腹も立ちません。この店員さんたちは、おそらく主婦のパートさんだと思いますが、もちろん家庭に戻ればよき妻、よき母親なのでしょう。問題なのは、もちろんこの方達の資質ではなく、店長(経営者)のマネージメントであることは、わしも理解できるようにやっとなってきました。

 俯瞰すると、人々の労働は、労働集約的な仕事から、主流は知識や技術を生かした労働へと変わってきました。
 人が機械や自然に向かい合ってモノを作るよりも、人に向かい合ってサービスを提供する仕事のほうが、より大きな価値を生み出せるようになると、労働者は肉体を磨耗させるのでなく、感情を磨耗させなくてはならなくなります。

 お客さんは千差万別です。欲求の内容も、満足する水準もそれぞれ違います。その一人ひとりに合わせてサービスを提供することは、精神的にもしんどいことで、逆に言えば、店員さんがそのように豊かな感情で接してくれれば、お客さんの満足度も向上することになります。
 提供するモノとかサービスは、コモディティ化が進んで大きな違いなどありません。それを提供する店員さん(人)がどれだけ商品に思い入れを持ち、お客に接してくれるかが差別化の源泉になっていることは、ほぼ皆さん同感されることでしょう。

 その一方で、わしが今日利用したようなファミレスは、お客のほうがそもそも美味しい料理など求めていません。数百円で提供されるのに見合った、そこそこの料理でいいのです。どうせセントラルキッチンで冷凍されたものを厨房では解凍しているだけなのですから。
 店員に立派なサービスも求めていません。やはり数百円のランチに見合った、そこそこのサービスでいいはずなのです。

 しかし、わしも含め、お客は身勝手だなあと思ったのは、その数百円のサービスすら笑顔で提供してくれることを(無意識にしろ)求めてしまうことです。わしの戸惑いはそこに原因があったのです。
 仏頂面で働いているのを見ると、この店員さんたちは根が無愛想でそもそもサービス業に向いていないのではないか、とか、笑顔で働けないのはモチベーションが低いからか、職場の雰囲気が暗いのか、とかいろいろ考えてしまうのです。

 社会主義国では笑顔や愛想は「商品」でした。店員さんの愛想にはお金が必要でした。
 資本主義の日本で、なぜ笑顔は店員の人格から発せられるものだと思い込まれ、「スマイル0円」のように「商品」とすら認識されないのでしょうか。
 これはちょっとヘンなのではないか、日本の「おもてなし」って本当に文化なのか、実は商品ではないのか、いやチップの習慣みたいに商品として対価をもらうべきなのが世界標準ではないのか、などと、けっこうあれこれ考えて心は千々に乱れるのでした。
 すいません、ヘンなお客で。

 

0 件のコメント: