2013年11月21日木曜日

清須会議のその後をまとめてみた


 先の休日、三谷幸喜監督の最新作「清須会議」を見に行ってきました。

 清須会議(清州会議)とは、天正10年6月2日に起こった本能寺の変により織田信長が死去したことに伴い、重臣が織田家の跡継ぎや領地の再配分を決めるために尾張国清須城で天正10年6月27日(1582年7月16日)に開催された会議です。

 映画は2時間以上にもわたる長編で、タイトルどおり、ほとんどが会議とそれにまつわる根回しといった室内劇ですが、羽柴秀吉ほかの武将たちの個性や思惑が激突する、非常に面白い映画でした。

 家に帰ってから、登場人物たちのその後が気になって仕方なくなり、ネットの百科事典であるコトバンク(kotobank)で調べてみました。

 映画はもちろん創作なので史実とは限らないし、そもそも戦国時代には正確な記録自体が少ないので、確定しない史実が多く諸説あるようですが、コトバンクによると、彼ら、彼女らは清須会議の後、このような人生を送りました。

(注意)一部ネタバレしますので、映画を見ていない方は先に進まないでください。



織田信雄 【おだ・のぶかつ】
 信雄は三法師(のちの
織田秀信)の後見役として、清洲城と尾張・伊賀・南伊勢100万石を与えられた。その後、羽柴秀吉と組んで織田信孝を岐阜城で破り切腹に追いこんだが、やがて秀吉と対立。
 天正12年には徳川家康と結び、小牧・長久手の戦で秀吉と戦ったが、単独で秀吉と講和を結び、以後秀吉の越中攻め、小田原攻めに従軍した。
 ところが小田原攻めののち、家康旧領への転封を拒んで秀吉の怒りを買い、下野烏山に配流され、出家して常真と号した。 

 のちに家康のとりなしで秀吉の御咄衆となり、大坂夏の陣後、家康から大和国、上野国のうちで5万石を与えられている。
 寛永7.4.30 (1630.6.10) 72才で没

織田信孝 【おだ・のぶたか】
 信孝は清洲会議で織田家の家督として指名される希望を持っていたがかなわなかったので、次第に柴田勝家と強く結びつくようになり、岐阜城に籠もって羽柴秀吉に抵抗した。

 ところが岐阜城を包囲されると信孝は母の坂氏を人質に出しその場をとりつくろう。翌天正11年4月の賤ケ岳の戦で勝家が敗れ自刃したあと、兄信雄の勧めで岐阜城を開城。尾張知多の野間内海に幽閉され切腹させられた。
 天正11.5.2 (1583.6.21) 25才で没


織田秀信 【おだ・ひでのぶ】
 3歳で織田家の継嗣と決められた。はじめ織田信孝によって岐阜城に抑留されたが、秀吉が岐阜城を攻めて奪い返し、織田信雄を後見として安土城に入れた。元服後は秀吉の名を1字を与えられて秀信と名乗り、文禄1(1592)年には岐阜城主となって13万石を領した。

 関ケ原の戦には石田三成の誘いをうけて西軍となり岐阜城に籠城するが、8月23日降服。一命は助けられたが剃髪し、高野山に上り同地で没した。
 慶長10.5.8 (1605.6.24) 25才で没


柴田勝家 【しばた・かついえ】
 信長の後継者の地位を巡って羽柴秀吉との対立が深まり、天正11年4月近江賤ケ岳(滋賀県木之本町)で対戦したが敗れて北庄(福井市)に退き、秀吉軍による包囲のなか同24日北庄城にて妻お市(小谷の方。信長の妹。もと浅井長政の妻)と共に自殺。
 天正11.4.24 (1583.6.14) 年齢不詳

丹羽長秀 【にわ・ながひで】
 清洲会議で若狭一国と近江国高島・滋賀2郡を領することとなり、坂本城(大津市)に移って秀吉、柴田勝家、池田恒興らと共に織田家を支えた。

 賤ケ岳の戦では秀吉方に属して勝家倒滅に武功を上げ、越前国の大部分と加賀国能美郡が与えられて北庄(福井市)に移ったが、その2年後に没した。
 天正13.4.16 (1585.5.15) 50才で没


池田恒興 【いけだ・つねおき】
 賤ケ岳の戦では秀吉に味方。戦後、美濃大垣13万石を与えられる。小牧・長久手の戦では秀吉方として緒戦に犬山城を攻略。その後、膠着状態の打開策に三河を衝くことを進言。先陣として三河へ向かうが、徳川家康に見破られ、子の元助らと共に長久手で戦死した。
 天正12.4.9 (1584.5.18) 48才で没。


前田利家 【まえだ・としいえ】
 幼名は犬千代。柴田勝家、羽柴秀吉とは双方ともに親密な間柄で、賤ケ岳の戦では当初勝家に加担したが途中で秀吉に降伏した。
 勝家の自殺後、加賀侵攻の先鋒を務めた功で加賀北半を加増され、さらに越中の佐々成政を下した功で、嫡子利勝が越中3郡を得、のちの加賀藩領の原形ができた。

 秀吉の信頼は厚く、三女摩阿姫(加賀殿)は秀吉の側室として聚楽第に住み、四女豪姫は幼時より秀吉の養女となって寵愛された。
 天正15年の九州出兵、同18年の関東・奥羽平定に大軍を出して秀吉の全国統一に参加。朝鮮侵略では名護屋(佐賀県鎮西町)に駐留。
 文禄4年の豊臣秀次の謀反後、秀吉の次男秀頼の守り役となり、翌慶長1(1596)年には従二位権大納言に進んだ。五大老のひとりとして秀吉政権を支え、秀吉没後の同4年1月秀吉の制法に背いた家康を追及する先頭に立ったがすぐ和解。その直後妻まつに遺書を代筆させ、まもなく大坂で没した。

 慶長4.閏3.3 (1599.4.27) 61才で没。

前田玄以 【まえだ・げんい】
 本能寺の変で織田信忠(織田信長嫡男)が自害したとき、岐阜に逃れて信忠の子三法師を保護。三法師が信長の後嗣にされるとその守り役となった。翌年羽柴秀吉が実権を握ると、京都奉行に任じられ民政や寺社に関する庶務をみて大いに実績を上げた。

 秀吉の信任は厚く、天正13年丹波亀山(亀岡市)5万石を給され、慶長3年には五奉行のひとりに抜擢された。
 秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立に際しては三成方に属したが、関ケ原の戦の間は大坂城にいて戦闘には参加していない。戦後は謹慎し、のち家康に許され、本領を安堵された。
 慶長7.5.20 (1602.7.9) 63才で没。

堀秀政 【ほり・ひでまさ】
 通称久太郎。天正9年近江長浜城主となり、山崎の戦においては羽柴秀吉の先鋒を務める。賤ヶ岳の戦ののち羽柴姓を賜わり、小牧・長久手の戦など歴戦に参加。天正13年閏8月越前北庄18万850石に移封。小田原攻めの陣中において病死。
 天正18.5.27 (1590.6.28) 37才で没。

織田信包 【おだ・のぶかね】
 通称三十郎。本能寺の変後、羽柴秀吉に属し、伊勢安濃津城主となったが、小田原攻めのとき秀吉の機嫌をそこねて所領を没収され、出家して老犬斎と号す。

 のち、秀吉の御咄衆として召し出され、慶長3年、丹波柏原3万6000石を与えられた。関ケ原の戦では西軍に属し丹後田辺城攻めに加わったが、幸いにも旧領を安堵された。
 慶長19.7.17 (1614.8.22) 71才で没。

お寧【おね】

 14歳で木下藤吉郎(秀吉)と結婚。夫の出世にしたがい従一位にのぼり、北政所(きたのまんどころ)と称される。
 慶長3年(1598)の秀吉の死後は、出家して高台院と号し、徳川家康の助けで京都に高台寺を建て、晩年をおくった。
 寛永1(1624).9.6 77才で没。

信松院 【しんしょういん】
 松姫。武田信玄の四女。織田信忠と婚約するが破談となり剃髪(ていはつ)する。天正10年、織田軍の甲府攻めで武蔵八王子(東京都)に逃れる。元和2(1616).4.16、55才で没。

※この説では、三法師は松姫の子でなく、そもそも信忠とも結婚生活は送っていなかったことになる。

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