2013年12月15日日曜日

(マニアック)東アジアおよび東南アジアにおける神仏習合


 伊勢市の皇學館大学 研究開発推進センター主催の公開シンポジウム「東アジア及び東南アジアにおける神仏習合・神仏関係」に参加してきました。
(マニアックな内容なので関心がない方は無視してください。)

 神仏習合、すなわち日本古来の神(土着の神とうべきか)と、インドから中国、朝鮮を経由して渡来した仏は一体の存在と認識され、ともに信仰の対象となる現象は、現在でも多くの日本人にとっては普通のことで、特別に違和感を抱くものではありません。
 歴史的に見ても神仏習合は奈良時代ごろには成立しており、明治時代になって新政府により神仏分離が断行されるまでは、お寺の中に神社があったり、神社に僧侶がいたりすることは珍しいことではありませんでした。

 このような神仏の習合が生まれた理由については、往々にして日本人独特の宗教観に基づいているもので、世界中でも日本にのみ顕著な現象だと理解されていました。
 しかし、近年の宗教学、歴史学の研究によれば、神仏習合は日本独自の思想ではなく、基本的な原理は中国仏教に源流があり、その考え方が日本に伝わって定着したものだそうです。

 それでは、中国ではどのように神仏習合が生まれたのでしょうか。また、仏教はカンボジア、タイなど東南アジアにも広く伝播しており、その過程で現地の神とも習合が起こっているはずです。それはどのようなものなのでしょうか。さらに、あらためて日本の神仏習合とはどのようなものと整理できるのでしょうか。



 今回のシンポジウムは、これら非常に興味深いテーマについて講演が行われ、非常に有益な機会でした。

 まず、皇学館大学文学部の河野訓教授より、日本における、特に平安時代の神仏習合について講演がありました。
 天台宗では、開祖である最澄が、唐に留学した際に(中国の)天台山に祀られていた神である山王の存在を知り、帰国後は比叡山で山王を祀るようになります。
 また、同じく天台僧で遣唐使であった円仁は、(中国の)五台山で、赤山明神なる新羅由来の神や、念仏の守護神である摩多羅神を知り、帰国後、これらの神々を比叡山に勧請します。
 真言宗では空海が、仏法を守護するインドの神(清瀧権現)を醍醐寺に勧請したことが知られています。
 このように、中国においては仏と中国やインドの神々の習合が8世紀ごろにはすでに広まっており、エリートである修学僧たちが日本へそれを持ち帰ったという事実があるようです。

 次に、上智大学文学部の北條勝貴准教授からは、六朝期(3~6世紀)の中国江南における神仏習合について講演がありました。
 これによると、日本の仏教文化に非常に大きな影響を与えた六朝期の中国仏教文化は、シャーマニズムや道教の影響が大きく、神仏習合には「神身離脱」や「護法善神」の2つの言説形式があるそうです。
 神身離脱とは、神が自らの身体を、前世の悪業に基づく悪身と捉え、仏法への帰依によって離脱を願う、という考え方。
 護法善神とは、地域の在来神が仏教に帰依し、その守護者となるという考え方です。

 特にわしが関心を持ったのは神身離脱です。桑名市多度町には上げ馬神事で有名な多度大社がありますが、ここに典型的な神身離脱の話が伝わっているからです。
 天平宝字7年(763年)12月21日のこと。多度大社の東に道場を設けて住んでいた満願禅師なる僧が、神からのお告げ(託宣)を受けました。その内容は「われは多度神である。われは久しい間にわたり重い罪を作ってきた。その結果が今、神として存在しているのである。 だから、今こそ神としての身を離れるために仏教に帰依したいと思う」という驚くべき内容でした。(多度神宮寺伽藍縁起並資財帳に記載がある話です。)
 意外ではありますが、人を超越した能力を持っている神の身であることは、時として苦しく、厳しいことなのかもしれません。

 北條先生によれば、このような神身離脱の言説は、2世紀後半に登場する安世高(西域出身で、仏経典を中国語に翻訳した僧)の伝記が嚆矢です。
 神ですら安心を得て魂が救済されるためには仏教に帰依しなくてはならない、というストーリーは、中国の土着の宗教(神々)を信仰していた人々に対して仏教の優越性を説く手段となったのでした。

 続いて、「タイ上座仏教と神々への信仰」と題して、駒澤大学総合教育研究部の矢野秀武先生による講演がありましたが、はんわし、残念ながら都合があって中途退席させていただいたので聞き終えることができず、3つの講演を受けた講師と会場とのディスカッションも聞くことができなかったのが残念でした。

 はっきり言って、内容はかなり難しいもので、わしが表面だけなぞってわかった気になっているのは僭越の極みですが、伊勢は神宮を有する宗教都市であり、人々の生活にとって本質的な要素である宗教、信仰といった問題について講究が行われ、今回のようなシンポジウムが開かれたのは市民にとって誇らしいことだと思いました。 
 

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