2014年3月9日日曜日

お城ブームに乗って鳥羽主水砦跡に行ってみた

 JR鳥羽駅の西側は、すぐに小高い山になっています。ここが「日和山(ひよりやま)」で、江戸時代、江戸と上方を結ぶ航路の風待ち港として鳥羽が繁栄していたころ、船乗りたちはここに上って天候や風向きを見たそうです。
 今では想像できませんが、鉄道の線路や駅、国道、港周辺にある施設はすべて明治以降に埋め立てられ造成されたもので、それ以前は海岸線が日和山のすぐ下にまで迫っていました。

 この日和山が、かつて「取手山(砦山)」と呼ばれた要害の跡であることを、恥ずかしながらはんわし、最近まで知りませんでした。
 この日和山はわしが子供の頃の遊び場で、ほうぼう知り尽くしていたのですが、近年になって歴史ブームが地方まで浸透すると、その頃はなかったような歴史の解説板が置かれるようになって、つい最近そのことを知った次第なのです。

 今日は3月らしく寒さが緩んだ休日だったので、実家からぶらぶらと散歩がてら砦跡を見に行くことにしました。



 スタートはここ。JR鳥羽駅です。この道路沿いに100mほど行くと立体駐車場があり、そこに左手に曲がる日和山への登山道があります。



駅からすぐ近くの場所にもかかわらず人気がないさびしい場所です。
 舗装された登山道も落ち葉や折れ枝で埋め尽くされており、毎日たくさんの人が歩いている道では決してないことをそれとなく感じます。
 歩くこと5分ほどで、このような看板のある場所に出ます。


 日和山は江戸時代の船乗りたちが天候を見た場所であるとともに、明治44年に鳥羽まで鉄道が開通したときに、地元の篤志家が今後観光客が増加するであろうと予測して、展望台など園地を開発した場所でもあります。いわばレジャーランドのはしりのようなところです。
 看板にある廣楽園(展望広場)はさらに5分ほど。行ってみると、たしかに眼下に鳥羽駅や鳥羽一番街、マリンターミナルなどの施設が見え、鳥羽湾が一望できるすばらしい絶景です。


 ご記憶の方も多いでしょうが、ここにはかつて、観光エレベーターがありました。
 高さ50メートルというエレベーターは戦前の昭和9年に開業しました。当時としてはおそらく珍しい観光施設だったことでしょう。(三重県鉄道略史 時の鉄路 に写真があります。リンクはこちら。)
 わしも子供の頃乗った記憶がありますが、その当時もうすでに相当古めかしい感じで、狭くてちょっと怖かった記憶があります。
 そのエレベーターは昭和49年1月に、当時の国鉄鳥羽駅舎で起こった火事によって類焼し、廃止されてしまいました。(火事は真夜中で大騒ぎとなり、わしの実家から駅の方向の空が明るく見えたことをはっきり覚えています。)
 展望広場の一角には、エレベーター乗り場のコンクリート橋台の跡が残っていました。


 たくさんの船が青い水面の上に白い航跡を残しながら滑るように行き交うのがよく見えます。
 何羽ものトンビが輪を描きながら空を飛んでいます。のどかな光景です。
 さきほどの看板の場所まで戻り、今度は「日和山方位石」がある、もうひとつの別の展望広場(見晴台)に行ってみることにします。

 この方位石は、江戸時代末期の文政5年(1822年)に摂州灘樽廻船中によって作られたもので、鳥羽市の指定文化財になっています。 


 そのすぐ近くには、無線電話発祥記念碑というものもあります。
 明治28年にイタリア人のマルコニーが発明した無線電話は、やがて日本にも技術が伝わり、大正3年12月に、ここ鳥羽と離島の答志島、神島を結ぶ連絡用として世界で初めて無線電話の実用化に成功しました。それを記念して日本電信電話公社により建立されたものです。


 そんなこんなでマニアックなアイテムのオンパレード状態の日和山ですが、その究極が「鳥羽主水の砦跡」です。
 無線記念碑から階段を下りていくと、その突き当りに、たしかにちょっと突き出たような高台があります。


 案内板によると、ここが取手山で、鳥羽を支配していた鳥羽氏(橘氏)が館を構えていた本曲輪(ほんくるわ=城郭)があったところです。
 鳥羽氏の祖先は南北朝時代(室町時代前期)に北朝の命によって、この地(泊浦御厨=とまりうらみくりや)の警護のためにやって来ました。
 御厨は「みくりや」と読み、伊勢神宮の領地を指します。鳥羽氏は領内に見張り所を置き、入港する船舶から入港税である帆別銭を徴収していました。
 
 本曲輪に登ってみると、意外に狭い場所です。見張り所として簡素な館ぐらいしかなかったのかもしれませんが、人工的な石積みが残っていたり、とぐろ状に登っていく道があったりと、確かに城郭としての雰囲気は残っています。


 インターネットで調べたところ、この砦を築いたのは永正年間(1504~1521年)頃に当主だった橘宗忠(鳥羽主水)と言われているそうです。
 しかし、宗忠には男子がなかったため、水軍の将として勢力を伸ばしていた九鬼嘉隆と領地の一部と所領を交換して(明け渡して?)、摂津の野田福島7千石に移りました。
 その後、なぜか再び鳥羽に戻り、慶長10年に鳥羽で没しています。(ちなみに、関ヶ原の戦いで西軍についた九鬼嘉隆は、戦後答志島に蟄居して慶長5年に自害しています。結果的に宗忠の方が長らえたというわけです。)
 
 室町時代は中世から近世に社会が変革する混乱期であり、古代から伊勢志摩一帯を領地としていた伊勢神宮の支配力が低下し、諸侯が割拠している状態でした。
 小領主だった宗忠も、伊勢神宮、国司、足利幕府、さらに新興勢力である戦国大名などとのパワーバランス維持に日々腐心していたことでしょう。
 今は平和な鳥羽湾も、かつては海の男たちが覇を争った戦場だったわけです。そんな思いにふけるには良い場所かもしれません。 

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