2014年4月26日土曜日

宝永4年とはどんな年だったか

 今ちょっと詳しくは思い出せないのですが、何かの本で、京都の有名な老舗和菓子店について歴史学者が書いていたエッセイにこんな内容のものがありました。

 その老舗に誇らしげに掲げられている「創業14××年」という看板を見た時、中世史の研究者である自分にとって非常に複雑な印象を持った記憶がある。この年号はまだ戦乱の戦禍がやまぬ頃であり、しかも創業と言われる年は異常気象によって近畿地方は空前の大飢饉に見舞われていた。土地を失った近郊の農民が続々と都に逃れてきており、餓死者や病死者の死体が洛中いたるところにうずたかく積まれている悲惨な状況が当時の資料に記録されている。そんな中で、餅(米)が主原料である餅菓子屋をどうやって創業することができたのであろうか?

 というような内容でした。
 その歴史学者は和菓子店を批判していたのでなく(そもそも創業時は別の稼業で、その後に菓子業に転業したのかもしれないとも書いてありました)、300年前に創業した老舗とか、何十代も続いている旧家とかの伝承は、実際には案外不明確なものだ、というような趣旨だったと思います。

 そんなことを思い出したのは、騒がれている(と言うか、周りが勝手に騒いでいる)赤福がきっかけです。赤福が伊勢神宮・内宮の門前で創業したという宝永4年(1707年)は江戸時代の中期にあたります。307年前のこの年はいったいどんな年だったのでしょうか?


 伊勢神宮は20年に一度、神殿や鳥居、神宝などをすべて新しく作り替え、神様に新宮にお移りいただく式年遷宮が斎行されます。直近の遷宮を4年後の宝永6年(1709年)に控えていた宝永2年は、全国から群衆が伊勢参宮に殺到する「おかげ参り」が大流行した年でした。
 上方(京や大坂)の少年たちによる抜け参り(親や奉公先に許可を得ることなく家出同然に伊勢参宮に行ってしまうこと)をきっかけに全国に波及し、国学者の本居宣長が記した「玉勝間」という本によれば、4月9日からの50日間で362万人が伊勢松坂(現在の松阪市)を通行したとのことです。当時の人口から考えても信じがたい数字ですが、他の街道筋の関係者による記録に照らし合わせても、必ずしも荒唐無稽な数字ではないようです。幕藩体制が確立して社会秩序が停滞してきたことへの民衆による集団ヒステリー現象だったのかもしれません。(おかげ参りは、その後も数十年おきに爆発的に流行することになります。)

 おかげ参りの翌年、宝永3年は伊勢神宮・外宮の門前町である山田(やまだ。「ようだ」とも発音)が大火に見舞われます。11月2日、山田の西端にあたる中島町から出火した火災は強風にあおられて、中心部に向かって東に燃え進み、山田の東端の尾上坂付近までが焼き尽くされました。
 外宮への類焼も心配されたため、山田奉行所と紀州藩田丸城主が手勢を派遣して警戒に当たったとのことですが、結局、約6000戸を焼失、200名近い死者を出す大惨事となりました。

 そして宝永4年(1707年)。
 この年の最大の出来事は、10月28日、今ふうに言えば東海・東南海・南海の三連動地震となるのでしょうが、マグニチュード8.4の宝永大地震が発生したことです。
 大地震の被害は近畿、中部、関東に広く及び、各地で家屋の倒壊、山の崩落、津波が発生し多数の死者が出ました。おそらく伊勢でもかなりの被害があったと思われます。
 11月23日には富士山が噴火しました。宝永の大噴火と呼ばれており、有名な宝永山ができたほか、全国に火山灰が降り、関東平野では厚さ数センチにも及んで耕作不能地が多数発生し、深刻な状況が後年まで続きました。

 赤福が創業したのはその頃ということになります。
 もっとも、文献によれば、赤福が宝永4年創業を名乗っているのは、正式な社史が残っているわけではなく ~江戸時代のことですからそれも当然でしょう~、 宝永4年ごろに出版された戯作本(美景蒔絵松=びけいまきえのまつ)に赤福という餅屋のことが書かれている、それが初見なので、この出版年を創業年としているに過ぎないようです。
 徒歩以外に参宮の手段がなかった当時は、疲れを取る意味でも餡ころ餅のおやつは重宝したでしょうし、外宮側(山田)は大火と地震のダブルパンチであったとしても、内宮側(宇治)は地震の被災も少なく、参宮客は依然多く、営業活動は可能だったのかもしれません。

 市中軒なる戯作者による「美景蒔絵松」は一部が早稲田大学の古典籍データベースに所蔵され公開されています。(わしもざっと読んだのですが古典かななので判読困難で、赤福の条は見つけられませんでした。リンクはこちら

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