2014年8月15日金曜日

内宮は秋の気配だった

 今日は夕方から伊勢神宮の内宮(ないくう。皇大神宮)に詣でてきました。昨年は20年に一度の式年遷宮が斎行された年にあたり、わしも奉献団やらなんやらの関係で、6月末から8月上旬にかけて、ほぼ毎週、伊勢神宮の内宮か外宮に出かけていました。
 しかし、遷宮が無事終了すると、よそからお見えになる参拝客は激増して、これはこれでありがたいことではあるのですが、地元市民は一つの大事を成し遂げて、熱は冷めてしまい、わしも考えてみればゴールデンウイーク以来、内宮には行っていませんでした。
 熱が冷めた、と書きましたが、これは悪い意味でそう言うのではありません。式年遷宮は、クライマックスともいえる遷御(せんぎょ。ご神体のお引越し)こそ昨年だったのですが、実際には新しいお宮を造営するための木材の確保など、早くも次の遷宮に向けた準備は始まっており、こういったいろいろな準備や段取りが19年間続くというイメージに近いものがあります。
 その意味では、いわばプロフェッショナルである伊勢市民は、力を抜くところでは力を抜くことを経験上、もしくは地域の伝統として脈々と受け継いでいます。今は静かにしている時、というだけに過ぎませんので、その点は誤解なきよう。

 とまあ、余談はともかく、夕方5時過ぎの宇治橋前はこんな感じでした。


 お盆休みのせいか人は思った以上に多く、それなりに賑わっていました。


 時おり涼しい風も吹き、空を見上げると、空の色や雲の感じが何だか秋めいて思えました。
 

ただ、そうはいっても参道はヒグラシのセミしぐれです。辺りは次第に夕なずんできて、残照が木立の先端部を明るく照らします。



 宇治橋から歩くこと約10分。やっと正宮に辿り着きました。
 昨年の第62回式年遷宮で、内宮は金座、つまり旧宮の西側に遷ったので、若干アプローチが近くなったとはいえ、けっこう汗をかいてしまいました。


 昨年目にした、無垢のヒノキがまさに金色に輝いていたような社殿の真新しさは失われつつありました。やはり1年間でも風雨にさらされると無垢材は白っぽく変色してしまうのはやむを得ないのでしょう。
 しかしもちろん、それでもなお新築感は残っています。伊勢の住人は、遷宮行事が人生の節目節目にあり、今回はわしもご縁をいただいて、そんな感慨を強く持つに至っているのですが、これから自分が年老いていくのと並行して、内宮の社殿も雨に打たれ、風に吹かれ、陽に晒されて次第に老成していくのを見るのが、楽しみ、というとちょっと違うかもしれませんが、そういうものの見方ができるようになりました。
 不思議なもので、遷宮直前の、20年経った、板や柱はすっかり傷んで黒ずみ、屋根の萱は痩せて苔がむしていた旧社殿が今となっては無性に懐かしいのです。

 正宮をお参りし、風日祈宮、荒祭宮と巡って、参集殿まえの広場(神苑)を通りがかるころにはすっかりあたりは暗くなっていました。


 
 今日は終戦記念日ということで、知らない方もいるかもしれないこぼれ話的な話題を書いておきます。
 この神苑、江戸時代までは神職が居住する町でした。今では想像もできませんが、江戸時代のガイドブックである伊勢参宮名所図絵などを見ると、住宅が密集して建ち並んでいます。しかし明治に入り、国家神道の色彩が強くなると、これが神宮の尊厳を損なうものとされ、火事の心配もあるとして、家々はすべて撤去され、新しく広場が作られたのでした。

 替わってここに置かれるようになったのは、富国強兵の大日本帝国が、日清戦争、日露戦争で獲得した戦利品でした。敵の要塞や軍艦から分捕ってきた大砲を軍部が勝利の記念に伊勢神宮に奉納し、それらがたくさん陳列されていたのです。
 上の写真とは反対側の場所になりますが、三重大学図書館がネットで公開している「三重県名所絵葉書」に、大正4年に撮影された「伊勢内宮奉献日露戦役砲」なるもの(リンクはこちら)や、「内宮神苑日本海海捷紀念砲」なるもの(リンクはこちら)があります。
 これまた、今では想像もできない光景です。当時は戦争というものがごく身近にあったのです。

 わしが伊勢の出先にいるときに、県民生活課で青少年指導員をされていた元校長先生の嘱託職員がおられ、その方から聞いた話では、戦時中、中学生(師範学校生だったかも?)の時、学校行事で神宮参拝という行進訓練があり、先生はこれらの大砲の前で「日清日露の役で活躍した兵士に貴様らも続け」とか「お国のために死ね」みたなことを言っていたのに、敗戦になると、穴を掘って砲を埋めて隠した(もちろん進駐軍から難癖を付けられないように)、その作業を手伝わされた。その時に先生は信用できん、と思たなあ・・・みたいな話をしみじみ聞かせてもらったことがありました。

 今の平和に感謝したいと思います。

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