2014年11月30日日曜日

伊勢・寂照寺「月僊展」に行ってみた

 伊勢市の古市街道に、栄松山寂照寺(じゃくしょうじ)というお寺があります。
 江戸幕府二代将軍 徳川秀忠の娘で、徳川家康の孫にあたる千姫は、数奇な運命の人生を送った悲劇の姫君として知られています。意外にも余生は長命で、寛文6年(1666年)に70歳で没しました。
 その千姫(天樹院)の菩提を弔うため、伊勢神宮に近い古市の地に延宝5年(1677年)建立されたのが寂照寺です。

 当初は寺勢も隆盛していたようですが、やはり人の世の常というべきか、天下泰平が続くうちに戦乱の世を生き抜いた天樹院のこともいつしか忘れられ、18世紀になると寂照寺も衰退傾向となってきます。
 そこで、本山にあたる知恩院から、再興のために一人の若い僧侶が住職として派遣されてきました。寂照寺第8世月僊(げっせん)上人その人です。安永3年(1774年)のことでした。


 月僊は、尾張国名古屋の味噌商家に生まれ、浄土宗の僧となって、江戸で修行しました。その後、京に移り、円山応挙に師事して絵を学びました。寂照寺にやって来たころは画僧として一定の名声はあったようです。

 月僊は荒廃していた境内を再興するために、山門、庫裏、書院などの再建に着手します。その資金に、伊勢参宮にやって来た貴人、富豪たちの求めに応じて画を描き、その報酬を財源として当てたそうです。頼まれれば誰にでも画を描く代わりに代金もしっかりといただく、ということから「乞食月僊」と陰口を叩けれたこともあったようです。

 しかし、その報酬は伽藍の再興に充てたほか、寂照寺の門前を通る古市街道(参宮街道)の改修や、天明飢饉の際の施米、寛政元年(1785年)に行われた伊勢神宮の第51回式年遷宮の際の宮川架橋(たくさんの舟を川に浮かべて板を渡した舟橋)などに充てられました。
 特筆すべきなのは生活困窮民のための生活資金を、当時、伊勢(山田)の民政を管轄していた山田奉行に申し出て1500両も寄贈したことです。江戸時代の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいそうですが、1両がおおよそ数万円から十数万円の価値だったそうなので、いまならおおよそ1億円前後になるのでしょうか。いずれにしろ大変な高額です。
 このお金は運用されて利息分が困窮者に貸し付けられ、制度自体は明治になるまで存続しました。
 まさに、仏の道、社会福祉活動を実践した僧侶だったと言えるのでしょう。

 伊勢とか、伊勢神宮というと、どうしても神道、神職(神官)、神事などに関心が向きがちで、仏教や僧侶の存在感があまり伝わってきません。実はそうではなく、名分論が強かった伊勢といえども神仏の習合は盛んであり、山田には多くの寺院が栄えており、僧侶が活躍していたことは再認識すべきかもしれません。

 さて先週の連休、ぶらぶら散歩して寂照寺の前を通りがかったらたまたま「月僊展」を開いていたのでのぞいてみました。
 寂照寺の伽藍は観音堂や金比羅堂などが国登録有形文化財になっていますが、月僊の描いた掛け軸や絵十数枚は、文殊菩薩を祀ってある文殊堂の中で、わりと無造作に展示されていました。

 係員はお孫さんと遊んでいた初老のご婦人(住職のご家族か?)で、わしが急に入っていったものだからちょっと驚いたような顔をされ、しかしすぐに、絵をご覧ですか? ではどうぞ中に上がってください、と言ってくださり、料金はただ、お客はわし一人という状態で10分ほど鑑賞させていただきました。

 基本、墨絵なので、これらの作品群が素晴らしいのかどうなのか、正直言ってわしにはよくわかりませんでした。
 ただ、繊細に描きこまれたというよりも、インプロビゼーションで一気に書き上げた、力強い、まっすぐな感じは受けました。
 しかし、現代人が文楽や歌舞伎を見ても何だか間延びした感じがするように、これら墨絵がビビッドに訴えかけてくるかというと、わしにはそうでもありませんでした。煩悩で心が曇っているからでしょう。(月僊さん、寂照寺さん、すいません。)

 この月僊展、今回で第8回になるようで、毎年11月のこの時期に開催されているようです。もしご関心があれば、次回、おそらく来年のこの時期、伊勢・寂照寺を訪れてみてはいかがでしょうか。

■三重県 歴史の情報蔵  社会福祉に尽くした画僧・月僊
 

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