2015年2月7日土曜日

銀座の夢

 東京での打ち合わせ場所がたまたま近くだったせいもあって、地下鉄に乗るために久しぶりに銀座の街を歩きました。

 わしくらいの年齢にならないとわからないことが人生にはいろいろあると思うのですが、わしの場合、このトシになってはじめて、他人の身なりとか服装とかをよく観察できるようになりました。
 高そうな服を着ているとか、宝石やブランド品を身に付けているとかではなく、その人の服のコーディネートとか、女性なら異様に流行遅れでないかとか、男性ならスーツにきちんとアイロンを当てているかとか ~そもそもふさわしい場にスーツを着てくるかどうかのTPOも含め~ を見る余裕ができるようになりましたし、自分もなるべく身だしなみはきちんとしようとを心がけるようになりました。(あくまで、一応、自分でできる範囲での身だしなみですが・・・)

 そんなふうに周りを観察してい見ると、銀座はやはり間違いなく洗練された人が多い街だと感じます。
 東京にはたくさんの繁華街があって、それぞれが大量の情報や流行を発信していますが、銀座が長らく流行発信の聖地でありつづけるのも分かる気がするし、歩いていて楽しくなる空間は貴重なものだと再認識できました。


 想像するに、わしら地方在住者の先人たちも、終戦直後の日本に何もなかった時代、そして力強く戦後復興していく経済成長の時代、同じようにここ銀座の華々しさに目がくらみ、心が奪われ、我が町、我がふるさとにも銀座を作ろうと夢見て、本当に実行してしまったこと。そのこともまた、時代のコンセンサスだったのでしょう。

 ネットで「銀座商店街」などと検索すると、たちまち全国各地にある数十ものご当地銀座商店街の名がヒットします。三重県にも銀座新道商店街(伊勢市)、上野銀座商店街(伊賀市)などがありますし、ほかならぬ東京都内でも、戸越銀座、谷中銀座、砂町銀座などたくさんのご当地銀座を見つけることができます。
 貧しさから抜け出そうと懸命に生きていた時代、服を買ったり、家電製品を買ったりすることは、生活の豊かさに直結していました。
 しかし単なる物質的な充足ではなく、「消費を楽しむ」ことも豊かな生活には欠かせないことで ~そうでなければ単なる「配給」です~、消費生活、消費文化といった、より高次元な消費行為が「銀座」という地名と一体化していたのだと思います。

 小規模な小売店、サービス店が集積する商店街という形態が歴史的には実は意外に新しいものであることは以前もこのブログに取り上げました。(「商店街はなぜ滅びるのか」 リンクはこちら
 しかし、商店街の近代化は昭和30年代もの昔から行政による産業振興の重要なテーマであり、商店街の拡張や舗装、アーケード設置などの工事が行政の補助も受けて各地で大々的に行われたとき、多くの商店街は我が町に「銀座」の名を冠したのです。それは商店街の店主たちの心意気でもあったのでしょう。

 それから50年近くが経ちました。
 多くのご当地銀座は、全国の他の商店街と同様、商業環境の大きな変化に対応できず衰退傾向となっているはずです。この劣勢を回復することは非常に困難で、やがては商店街という集積が次第に融解していくであろうこともまた、時代の趨勢です。
 東京・銀座の消費文化を地方でも再現したいという夢は、今や潰えそうになっています。

 ただ、考えてみると、50年前には地方の商店主は大きな経済勢力で、ご当地銀座を作るための多大な負担を自らで賄うことができたということです。(もちろん、行政の補助もあったわけですが)
 農林水産業や製造業などの地場産業によって地方は経済的に自立しており、日常生活をより豊かに向上させるという地域商業(小売業、サービス業)の役割も明確でした。
 しかし、農林水産業は言うまでもなく、地域経済の牽引役である製造業、建設業などが軒並み不振となり、地域商業の役割も縮小してきたと見ることができます。
 そして、今後の産業構造はさらに研究開発型の高度な製造業やICT産業、高度な専門サービス業に稼ぎ頭が移って行きます。モレッティ氏が著書で言うように、これらのイノベーション産業の源泉は人の頭脳であり、高いスキルや優れた発想を持つ人材がいかに集積しているかが競争力の源泉になります。簡単に言えば、都会はますます強くなり、人の少ない地方はますます取り残されていくことになります。(「【読感】年収は住むところで決まる」 リンクはこちら

 工業と商業で成り立っていた時代には銀座を地方に作ることもできましたが、ハイテク産業の時代にはそれも不可能です。というか、都会の成功モデルを田舎に移転させるというコンセプト自体が成り立たないのです。

 寂れたご当地銀座は地方が見た夢の残骸ですが、時代が進むにつれ、地方は夢を見ることもできなくなるのでしょうか。

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