2015年4月15日水曜日

【読感】 京都<千年の都>の歴史

 日本は2000年以上にもわたる長い歴史を持つ国です。しかし最近の「高齢化」とか「人口減少」は、わが祖国の歴史始まって以来の初めての事象だと言われています。なので、われわれ現代人は過去をお手本にすることはできないのだと。

 しかしこの本、京都<千年の都>の歴史 高橋昌明著(岩波新書)を読むと、当たり前といえば当たり前ですが、794年(延暦13年)の遷都から今に至る間に、京都は時代によって大きく変遷し、さまざまな困難に直面しながらも、常にそれを乗り越えてきたことがわかります。

 政治のあり方も、平安時代初期の天皇親政から、摂関政治へ、さらに院政へと変化し、平清盛の登場により武士が権力中枢を占めるようになります。
 武家政治はそれから数百年間、江戸時代まで続くことになりますが、時の武家政権(幕府)と京都(天皇)との距離感や序列関係は微妙に変化しており、織豊政権期とか徳川政権末期(幕末)などのように、日本の社会システムが大きく変革する時には、京都は必ず歴史の表舞台に出てきます。

 停滞と復興を繰り返す京都の歴史は、わしたちにとっても大変参考になるべきものと思います。


 この本の構成は、時代順に7つの章立てからなっています。

1)平安京の誕生
2)花の都の光と影(摂関期)
3)平安京から京都へ(院政期)
4)京と六波羅(源平期~鎌倉期)
5)武家の都として(南北朝から室町へ)
6)都を大改造する(信長と秀吉の京都)
7)イメージとしての古都(江戸時代の京都)

 平安京は唐の都である長安をモデルに、南北5.2キロ、東西4.5キロにわたり、街路が碁盤の目状に整然と区画された都として設計されました。イメージとしては、都大路を人々や牛馬が行き交い、活気にあふれた都のように思います。
 しかし平安時代の初期は、朝廷軍と蝦夷(えみし。朝廷に服さない関東・東北の先住民)とが大規模な戦争を行っていた時期でもありました。さらに大地震や旱魃、洪水などの自然災害も多く、財政的負担や人夫の徴発が難しくなったため、平安京はついに未完のまま造営工事が中止されることになります。特に都の南西部は、もともと低湿地であったことから、そもそも最初から街路すら作られていなかったようです。

 その後、政治が天皇の手を離れて摂政、関白に移るようになると、これ以降は時の権力者が京都の中にそれぞれの拠点を設けるようになります。藤原摂関家なら宇治、院政期なら鳥羽、平氏の時代なら六波羅、足利氏の時代は室町など。
 そして12世紀ごろになると、たびたび火事で焼失し、そのたびに再建されていた天皇の居所である内裏(だいり)もついに再建されなくなります。
 わしは、これはまさしく天皇の勢力が衰微していく象徴だと思っていたのですが、高橋さんによると必ずしもそうではなく、天皇は時の権力者と一体化して(庇護を受けて?)政治を行うスタイルが一般的となっており、里内裏、つまり有力な家来の邸宅に同居することが常態化していたためで、あえて内裏を再建する必要がなかったからだということです。

 これらの章で特にわしが関心を持ったのが、応仁の乱による京都の決定的な衰退です。
 10年にわたる戦乱と、その影響で治安が悪化したことなどにより市中で頻発した大火によって、京都は広範囲にわたって焼失してしまい、人家が密集しているのは一条通以北の「上京」と、三条通以南の「下京」の2つの地域にしかなくなってしまいます。かつては十数万人もいたという京都の人口は何と3万人にまで激減します。今からは想像もできないことです。
 しかし、このことは結果的に、各町々の自立を促すことになりました。個別の町だけでは解決できない問題は町と町が結びついて対処する、という京都に独特の町民自治の一定の仕組みができあがったのです。これにより、京都は中世期のメガポリスへと発展するきっかけを作ることとなりました。このような点は、現代から見ても参考になると思います。戦乱のような悲惨な状況で壊滅してしまったのは残念ですが、ある意味でこれまで積み重なってきた「しがらみ」の部分をぶち壊すようなスキームの変化がなければ、膠着した時代状況が変わらないのは事実かと思います。(もっとも、京都町民の自治確立の経緯は相当に背景が複雑なので、詳しくはぜひ本書をお読みください。

 16世紀になると、豊臣秀吉による御土居の建設(これにより、京都の市街地の範囲がほぼ確定され、これは現在まで引き継がれています)や、聚楽第、京都大仏、伏見城の建設(これらはすべて今は残っていません)、さらに徳川幕府による二条城の建設や大寺院の再建再興などが進められ、京都はふたたび大きく変貌することになります。

 最後にわしの感想を付記しておきます。
 京都は幾たびかの衰退から立ち直っているわけですが、これは天皇や幕府といった政治権力と、いわゆる町衆のような経済権力がうまく結びついたためだともいえます。
 京都は古来から、織物のデザインとか工芸品などの「知的産業」、また土蔵や両替商などの「金融業」で収益を上げるシステムを作り上げており、戦乱などで供給が不足して一時期は危機的状態になっても、社会が復興する途上と、安定した時期には必ず「都市力」が増大する構造になっています。これはひとつのポイントかと思います。

 もう一つは、東京に遷都した後の京都のあり方です。
 天皇という後ろ盾を失った直後、やはり京都は人口の大幅減少と経済衰退に直面しました。これを乗り越えたのが、全国に先駆けた小学校制度の創設、伝統産業近代化のための職工育成などの教育政策であり、もう一つは琵琶湖疏水の建設、街路の拡張、市電の敷設などの近代インフラ整備政策でした。そのうえで、古都というイメージを生かした景観整備や、博覧会の連続誘致にも取り組み、勧業都市と観光都市として復活を果たしたのです。
 この、近代的な都市政策からも学ぶところは多いように感じました。 

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