2015年8月15日土曜日

A・レーモンドはアメリカのスパイだった?

 伊勢新聞に、日本本土を焼き払う企画を実施させた建築家 という面白い記事が連載されています。(リンクはこちら
 建築エコノミストで一級建築士の森山高至氏の手になるもので、先の太平洋戦争においてアメリカ軍が日本各地の都市で多くの国民を死傷し、街を無残に焼きつくして焦土にした本土空襲に関して、木造家屋が多い日本の都市構造に着目し、より効率的に都市を破壊して住民を殺戮するために、具体的な爆撃方法を提言した、ある「建築家」の存在を明らかにしたものです。
 日本の敗色が濃厚となった昭和19年末~平成20年夏にかけて、アメリカ軍は全国200余りの都市を無差別爆撃しました。死者約33万人、負傷者約43万人という甚大な被害を生み、被災人口は約970万人、当時の日本の総住戸の約2割にあたる223万戸が焼失しました。これは、軍(アメリカ軍)が軍(日本軍)に対して行う戦闘行為というより、むしろ非戦闘員である無辜の一般国民を標的に行われたもの ~いわゆる「戦略爆撃」~ です。
 一般的には、空襲とは飛行機で上空から爆弾を投下し、目標物を爆破することです。しかし森山氏によれば、「日本の都市には木造家屋が密集しており、それらの素材は木や竹や紙なので燃えやすいことから、軍に対して、爆弾による爆撃よりも焼夷(しょうい)弾によって火災を起こし、都市をまるごと焼き尽くす爆撃のほうが有効である。」ことを提言したアメリカ人建築家が存在しました。それが、近代日本の代表的建築家であるアントニン・レーモンドその人です。



 レーモンドは1888年、チェコで生まれました。大学で建築を学び、建築の大家であったフランク・ロイド・ライトの下で、大正7(1919)年に帝国ホテルの設計スタッフとして来日しました。その3年前の1916年にはアメリカの市民権を得ていました。
 来日3年後、ライトの下を離れ、帰国はしないで日本で設計事務所を始めました。聖ポール教会(軽井沢)や東京女子大学礼拝堂など非常に数多くの建物を設計していますが、三重県にゆかりが深いのは、国の登録有形文化財にも指定されている 三重大学レーモンドホール (旧三重県立大学図書館。昭和26年竣工)でしょう。

retrospective のウエブサイトから引用
 レーモンドホールは当初の場所から移築はされてはいるものの今も三重大学構内にあって、現在は会議やセレモニーの際に使用される講堂になっています。木造平屋建、切妻造のシンプルな外観ですが、柱や梁などの構造材に丸太が用いられており、南面は全面がガラス張りという開放的、かつ周囲の自然と調和したデザインであることが特徴です。「三重の建築散歩」(月兎舎)によれば、

 日本人の世界観である自然との一体感を重視したレーモンドは、丸太を生かしたこの手法で繊細な数寄屋造りとも、骨太で力強い民家とも違う建築の魅力を引き出している。

 と称賛されています。(中西修一氏の記述によります)

 しかし、このように日本を愛し、日本で活躍し、日本人建築家も多く育てたレーモンドは、太平洋戦争中、率先して軍に協力し、アメリカ・ユタ州の砂漠に日本の都市(下町)の忠実な実験爆撃用の家屋を設計し日本の実物大の木造家屋を建て、焼夷弾の燃焼実験を繰り返しました。
 「ダグウェイ試爆場」というところでは、日本の木造長屋を正確に設計し、二階建ての二戸三棟の建物を四列並べ、全部で十二棟二十四戸の家々を実際に建築しました。トタン屋根、瓦屋根の二種類をつくり、路地の幅も日本と同様にし、日本の下町の町並みを再現しています。
 建材も、日本のヒノキに近い木材が使われ、建物には雨戸や物干し台をつけ、家の中には畳を敷き、ちゃぶ台や座布団などの家具、日用品も置きました。レーモンドが日本の各家庭や生活状況のことを知り抜いていたからこそ可能だったわけです。
 この試爆場での燃焼実験により、焼夷弾にどれくらいの燃焼材を入れるかとか、爆弾が空中で散開するようにとか、最適化していったということです。

 森山氏によると、この焼夷弾による日本の都市爆撃立案は、戦後長い間秘密のベールに包まれており、レーモンドにとっては不本意とも言える苦渋の選択だったとか、戦争終結のためやむを得なかったとの見方も多かったのですが、2011年に、初来日した1919年の時点ですでに、レーモンドはアメリカ陸軍から情報活動の使命を帯びていたという米国公文書がアメリカの公文書館で見つかったことでこの論争は決着したそうです。
 ただ、具体的にレーモンドがどのようなミッションを与えられ、焼夷弾の提言の他にどのようなスパイ活動を行ったのかはこの記事では明らかになっていません。

 また彼にどのような主義主張や信念があって、進んで軍のスパイとなり、日本を裏切るような行為をしたのか、そしてさらに戦後の日本でも多くの建物を設計したのかの心の内はわかりません。戦争は多くの人々をいやおうなく駆り立て、協力者に仕立ててしまうものなのかもしれません。
 このレーモンドの空襲研究のことは比較的有名な話らしいのですが、わしはこの伊勢新聞の記事を見るまで全く知らなかったので、大変驚いたという次第です。

 なお、皮肉なことですが、実は「戦略爆撃」は日中戦争において日本軍が昭和12年頃から中国・重慶で行った空襲が嚆矢とされています。アメリカはその手法を今度は日本に応用したわけです。しかし、市民への無差別攻撃である戦略爆撃は、当時から「ハーグ平和条約」が禁止する残虐行為に該当し、条約違反となる可能性が高いものでした。しかし結果的に日本軍も、アメリカ軍も、戦略爆撃が戦争犯罪に問われることはなかったようです。 

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