2016年3月18日金曜日

経済発展に戦略性は関係ない

 三重県の地方銀行 百五銀行のシンクタンク(百五経済研究所 略称HRI)が毎年この時期にリリースしている 三重県経済のあらまし を何年ぶりかで購入しました。
 三重県の人口推移や年齢構成、産業分野別の事業所数、従業者数、生産高などがグラフ化され、簡単な解説が添えられているもので、データの出所としては国勢調査であったり経済センサスや農林水産統計年報といった、一般でも無料で容易に入手できる公的な統計ではありますが、大変見やすくまとめられていて、ちょっとした調べものに使うのに非常に重宝な一冊ではあります。
 この3月に出版されたばかりの2016年版は、HRIが創立30周年を迎える記念号の位置づけということで、「戦後70年 三重の経済・産業小史」という数ページの特集が組まれているのですが、これがまた大変興味深い内容なので、三重県の産業や経済に関心がある方は、ぜひご一読をおすすめします。
 三重県の県内総生産は名目で約7兆7千億円くらいあって、全国順位で言うとだいたい20番目くらいに位置しています。このような「平均的な」県で、県域だけを対象に編集されているビジュアルな経済統計書が出版されているのは、東京都(90兆円以上!)のようなごく一部の都道府県を除いて、ほとんど見かけることがありません。このようにある意味で「経済に熱心な」県民性があると言える、三重県の経済発展の姿を振り返ってみるのも、一興かと思います。


 この本「三重県経済のあらまし2016」では、戦後を6つのスパンに区切って解説しています。
 おおざっぱにまとめると、

1)戦後復興期(昭和20年~26年)
 朝鮮戦争による特需により、三重県の鉱工業生産も昭和25年には戦前の水準に回復。四日市港の整備により綿花や羊毛の輸入が活発に。県の主力産業は、製糸、織物、漁網、タオルなどの繊維産業だった。

2)基盤整備期(昭和26年~36年)
 県や各市町村は工場の誘致に注力するようになり、道路、港湾、用水などのインフラ整備が急速に進んだ。被災していた四日市市の旧海軍燃料廠が昭和石油に払下げられ、三菱グループによる石油化学コンビナートが昭和34年から操業。本格的な重化学工業時代が到来する。
 昭和30年代には津市に松菱デパート、四日市市に岡田屋や近鉄百貨店が開店し、セルフ式のスーパーマーケットも広がるなど、流通業界も一大転換点を迎えた。

3)高度成長期(昭和36年~48年)
 この13年間の県内の平均経済成長率(名目)は16.3%。名四国道や名阪国道の開通により東海と関西の中間にある地の利を生かし、鈴鹿市にはホンダ、富士電機、フジクラ、四日市市には味の素、東ソー、亀山市には日東電工、古河電工、伊賀市には森精機、津市には日本鋼管、などが続々と立地。消費者もレジャーブームを迎え、鈴鹿サーキットや長島温泉がオープン。
 一方で水質汚濁、大気汚染などの公害が深刻化し、ぜんそく患者などが大量に発生。昭和42年には四日市公害訴訟が起こされ、47年に原告(住民側)が勝訴をおさめた。

4)安定成長期(昭和48年~61年)
 第1次オイルショックにより高度経済成長は終焉。県内でも生産と消費の停滞、企業倒産が相次ぐ。しかし、この期間の平均経済成長率(名目)はまだ9.2%。北勢を中心に、デンソー、富士ゼロックス、八千代工業、富士通セミコンダクターなどの企業立地が進み、石油化学から徐々に自動車や電子分野にも裾野が広がり始める。

5)バブル景気から失われた10年(昭和61年~平成14年)
 昭和60年のプラザ合意により円高不況に陥るものの、政府の金融対策もあって円安、低金利が進み、いわゆるバブル景気(平成景気)に突入。三菱重工、東芝(四日市)、トヨタ車体、シャープなどの工場立地が進む一方、鈴鹿サーキットでのF1開催、伊勢神宮の式年遷宮に合わせた世界祝祭博覧会の開催、国のリゾート法の全国第1号承認となった「三重サンベルトゾーン構想」により、志摩スペイン村やゴルフ場などのリゾート開発も県内各地で進む。
 しかし平成3年になり銀行の総量規制が始まると地価が急落し、リゾート開発の多くは頓挫。平成5年には三重県もマイナス成長となる。

6)再生への模索(平成14年~)
 失われた10年の間も低成長ながら県内経済はプラス成長だったが、平成20年のリーマンショックで-10.9%と全国最悪となる。平成16年には亀山市にシャープが立地され、19年には製造品出荷額が全国第9位と、山・谷はあっても比較的堅調な経済が続いている。
 
といった感じになるかと思います。
 くわしくはぜひ「三重県経済のあらまし2016」をご覧ください。

 こうして見てくると、この特集記事の総括にもあるように、三重県はその時代時代に応じて、先端的な企業が立地してきたことがわかります。石油化学から自動車、電気、そして半導体や液晶へというように。
 このように産業の主役交代がスムーズに進むことで雇用の創出や経済活力の維持が可能になってきたのです。
 しかし、今振り返って考えなくてはいけないのは、こうした変遷が果たして「戦略的に」行われてきたと言い得るかどうかということです。

 ある種の神話として、戦後の日本は大蔵省が金融と財政政策を担い、通産省が産業政策を担った結果、めざましい戦後復興と経済成長を遂げたのだ、というストーリーがあります。
 これは研究が進んだ現在では完全に否定されており、特に「産業政策」と称する通産省の行為は、企業の自主的な成長を阻害するとともに、市場競争の中で淘汰されるべき生産性の低い産業をいたずらに延命させたに過ぎないということが定説になっています。(たとえばこちらを)
 これは、主に企業誘致(工場誘致)と地場の中小企業の保護・育成を二本柱としてきた三重県による産業政策(商工政策)も同様です。バブル期以降の、三重サンベルトゾーン構想、三重ハイテクプラネット構想、クリスタル(液晶)バレーなどの「4つのバレー構想」、知識集約型産業への転換構想などはほとんどすべてが失敗しており、巨額の補助金で誘致したシャープ亀山工場など今や物笑いの種にさえなっています。

 その原因は、当たり前の話ですが、グローバルに展開している経済活動において、そしてインフラや市場が成熟している日本において、政府や、まして県(県庁)が、次代を担う成長産業を目利きすることなどできないし、たかだか数億円規模のインセンティブを撒いても実体経済に何の影響も与えられないということです。もし役人が産業化に成功する新技術とか、付加価値を生む新産業を目利きすることができるのなら、官僚が統制する社会主義国が破滅するはずがありません。こんなこと当たり前なのです。

 「三重県経済のあらまし2016」も言及するように、三重県の経済発展は、名古屋と大阪の真ん中に立地していること、道路や港湾が整備されていること、そして「雪が降らず温暖」な気候であるという、地勢的条件に圧倒的に依拠しているのです。
 この優位性は、伊勢神宮の存在により人も物もカネも情報もひとりでに集まり、伊勢湾の舟運で物流利便性も高かった江戸時代から全く変わっていません。

 また、「三重県経済のあらまし2016」は触れていませんが、経済発展は三重県民の県民性にも密接にかかわっていると思います。三重県民はおっとりしていてガツガツせず、上昇志向も少ないと評されます。また、何かにつけ強いこだわりや思い入れも少なく、わりと「目新しいもの」に飛びつくようなところもあります。
 もちろん、そもそも県民性なるものが日本人全体から見れば相対的な、ごくミクロな違いに過ぎないわけで、あまり強調するのもいかがかとは思いますが、それでも、一定の要素としては考慮に値するものでしょう。

 三重県に住む人生の先輩たちが営々と努力して達成してきた経済成長は素晴らしい。これは事実です。しかしそれは戦略的に実現したものとは言えません。政府や県の思惑でなく、企業や労働者といった産業の担い手たちが、しのぎを削り、せめぎ合いながらジグザグに歩んできた軌跡なのです。
 これは今後も変わらないし、それしか成長の道もないのです。

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