2016年4月7日木曜日

誠実な人がいなくなったら

 乙武さんの人徳というべきか、あれほどわかりやすい、叩かれやすい「不始末」を犯した人が、わりと短期間で世間から忘れられ、不問に付されつつあると感じるのはわしだけでしょうか。
 もちろん彼とて聖人君子ではなかろうし、わしらのような凡夫は煩悩の海を漂う所詮はクラゲのような存在なので、乙武さんも「アチラがお盛んなヒトが、たまたま重度の障がい者であった」というだけなのでしょう。嫁さんも許しているみたいだし。
 しかし、本当の問題は、世間が彼をバッシングしすぎているとか、乙武さんにも恋愛の自由はあるとか、一度のミステイクですべてを失う世の中はおかしいとか、そういう上っ面の話ではありません。
 彼は事件発覚後に辞任するまで東京都の教育委員でした。東京都の公教育全般に意見を言う立場の有識者だったわけです。世間の手本となる、清く正しい人物であるべきでした。清く正しい人間なんてこの世に誰もいないかもしれませんが、清く正しい人が委員でなければ、教育委員会による教育行政という仕組み自体が立ち行かないのです。
 社会制度とか社会組織はそのような「フィクション」で成り立っています。彼が清く正しくない「普通の人」だったのであれば、それを自覚していたのなら、最初からそのフィクションに乗っかってはいけなかったのです。
 彼は(あるいは彼の弁護者は)自分の子供たちにこの経緯をどう説明するのでしょうか。わしは真剣に聞いてみたいのです。



 中国が血族以外に社会のだれも信用しない不信社会だとすると、日本は信頼社会だといわれます。信頼社会は同質性が前提になるので、異端を排し、大きな変化、早い変革を認めません。漸進的に変わってゆくのが日本社会で、もちろんプラス面とマイナス面の両方がありますが、日本人の多くは今まで信頼社会を肯定的に捉えてきたはずです。
 しかし、否応なく進むグローバル化によって、このようなガラパゴス的な信頼社会はどんどん牙城が崩れています。聖職といわれた警察官や教員が不祥事を起こします。健全な精神のはずのスポーツマンが賭博にうつつをぬかします。清く正しいと思っていた人も ~世間が勝手にそう思い込んでいたのかもしれませんが~ 実は凡人と同じか、それ以下のモラルだったと報じられます。
 
 凡人の凡人たるゆえんは、自分は煩悩にまみれ数々の間違いを犯すにしても、社会には手本になる人、見本になる人、尊敬すべき人というのは確かにいて、それがゆえに世間は堕落しきらず、時に逆風が吹いても世間は、社会は、未来に続いていくという、信頼社会への漠然とした期待があるということです。
 世の中は悪い人ばかりだけれど、清い誠実な人がいて、また、悪い人にも清い心はあって、その清い心の総和が社会を明るくしているという、信頼社会へのイメージと言い換えてもいいかもしれません。

 それが震度5強的に揺らいでいるのが昨今で、ひときわ大きなビルがとうとう崩れた!という絵が乙武さんの謝罪なのです。
 わしも年のせいか、物事を悪いふうに悪いふうに考えてしまうようになりましたが、後年、平成28年が、古き良き信頼社会の日本の最後の年だったなあ、という風にならなければよいと思います。

 とにかく、この件で、人々は疲れてしまいました。

 「誠実な人」は日本のどこにも本当にいないことがわかったのですから。

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