2016年6月30日木曜日

「自虐」の果てに

 先日の読売新聞に ご当地PR自虐ユーモア という記事が載っていました。
 群馬県下仁田町が作成した「人と町の風景」という移住定住PR動画が人気を集めているという内容でしたが、その理由について動画の挿入歌の歌詞がこんなふうにユニークだと説明されています。
 歩いても人もまばらで 駅前でさえそんな状況で
 ネギとかコンニャクばっかり有名で 他にもあるよあると思うけど
 オー下仁田 オー何もない町
 見渡せば岩と山と取り残されたような街並み
 歌詞のこの自虐ぶりが高く評価(?)されているからではないか、といった趣旨なのです。
 観光集客や移住促進といった目的で地方自治体などが作るご当地PRの世界では、鳥取県の「スタバはないけどスナバはある」とか、島根県の「日本一どこあるか知られていない県」とかいった、シャレとはいえ自分達の故郷を貶めて笑いものにする、いわゆる「自虐ネタ」が一つのジャンルとして確立しています。
 ネットで検索しても、茨城県の「のびしろ日本一」とか、広島県の「おしい!広島県」、埼玉県の「そうだ埼玉♪」、といった自虐ネタをいくつも拾うことができます。
 しかし、このような二流、三流の県が自虐ネタに走っても、恥の上塗りになるだけです。なぜんこんな低レベルの「地域間競争」が日本では展開されるのでしょうか?


 先ほどの読売新聞の記事には、広告クリエイターの三寺雅人氏の分析が載っています。
 昨今の地方創生の流れの中で、観光客や移住者を集めようと各地が競い合ってPRに力を入れていますが、「風景やグルメを訴えるだけのありきたりのご当地自慢では他と差別化ができないため、自虐的な表現を採用する傾向がある。」とのことです。

 ごもっともだと思います。
 確かにご当地PRも内容がコモディティ化して、差別化要因がほとんどなくなってきたことで説明できるでしょう。
 美しい風景、穏やかな人々、季節の移ろいや自然の豊かさを感じられる日本の地方は本当に素晴らしい。しかし、贅沢にも、これらは日本にはありふれ過ぎた光景であって、PRされる側、つまり情報を消費する側の都会の人たち ~田舎のたおやかな生活から最も縁遠い人々~ にとっては退屈な、刺激のない、どこなのかよく見分けのつかない風景なのです。
 これを打ち破り、ライバルを蹴落とすには、捨て身で「自虐ネタ」に走るしかない。
 故郷を「創生」すべしとの使命感に燃える関係者はそう信じ込んでいるようにも見えます。

 しかし、自虐ネタの映像を見ると、それを演じている地方の住民自身は本心でそう信じているわけではないようにしか思えません。本当に地方など何もないと思ったら、都会に出て生活するほうが利便性も高いし所得も安定するからです。
 逆説的に聞こえるかもしれませんが、このように「自虐のフリをしているに過ぎない」姿勢が透けて見えるところが、もうすでにパロディとしては失敗なのです。それを見せられる外部の第三者は全然笑えないのです。
 不便な生活、見劣りする都市基盤、偏った住民年齢構成、を本当に不利なもの、劣ったものと見ることはなく、知っていても知らぬふりをして、過大の本質には手を付けず、「自虐のフリ」をする。そして、それをPRに使う。
 この精神構造の二重性が、まさに疲弊した日本の地方の袋小路ぶりを示していると言っては大げさでしょうか。

 結局、自虐それ自体がPRとしての差別化要因を失っている中で、そうとも知らずに地域おこしプロデューサーだの映像作家だのコミュニティデザイナーだのと称する面々が、国からもらえる地方創生交付金で懐が潤っている地方自治体の首長だの職員だのをたぶらかし、二番煎じどころか、三番煎じ、四番煎じの「自虐動画」を作り、動画サイトにアップし、その際どさゆえに再生回数が増えたら、ほらこれでおたくの市や町や村の知名度も上がりましたなどと言われ、可哀そうな地方は幼児のようにただウンウンとうなずくばかり。
 こんな絵面が、わしには想像されてならないのです。

 あらゆるものが商品になり、金銭的な価値で換算され、流通するのが資本主義ですが、日本の成熟した資本主義は「地方そのもの」「郷土愛」といったものまで商品にしているのです。
 やむを得ないこととはいえ、まことに世知辛い世の中です。 

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