2016年8月14日日曜日

玉音放送を聞いて少女たちは何を考えたか(その1)

 先月、永六輔さんが亡くなりました。同じくこの春に亡くなった、はかま満緒さんといい、わしが小学生中学生のころから愛聴していた番組 ~「誰かとどこかで」、「六輔七転八倒」、「日曜喫茶室」などなど~ のパーソナリティーが鬼籍に入ってしまうのは本当に寂しく感じます。
 永さんが亡くなったこの夏にこそ、ぜひこの本 「神國日本は敗けました。」日経大阪PR 1995年発行(現在は絶版)を紹介したいと思います。
 昭和20年8月15日正午、昭和天皇自身によるポツダム宣言受諾の詔がNHKラジオで放送されました。いわゆる「玉音放送」です。
 この時の天皇の言葉が難しい漢語交じりだったうえに、当時のラジオは雑音が多く、「ほとんど聞き取れなかった」という証言も多いのですが、実際の放送では天皇の朗読の後、アナウンサーが同じ内容を再度朗読していたので、大人が内容をまったく理解できなかったことは、実はあまりなかったはずだというのが史実だそうです。
 それはともかく、この本は、名賀郡名張町立名張国民学校(現在の名張市立名張小学校)5年は組で、日本が戦争に敗れたと知った時の感想を、担任の西出美津先生が児童たちに作文にするように指示し、書かれた、その貴重な原稿を50年ぶりにまとめたものです。


 少国民と呼ばれていた児童たち(この当時は小学校でも高学年は男女別クラス編成なので、は組は全員女子)の素直で率直な感想がみずみずしく ~生々しくと言うべきか~ 記録されており、非常に興味深い内容です。

 たとえば、ある児童はこう書きました。

 八月十五日のあの御聲畏くも天皇陛下の御放送。私達は心を清め身を正して天皇陛下の御放送をお聞きしました。
 その後天皇陛下が勅をお降しになり私達は勅をお聞きしました。何ともいえないのかよその人々は目にいつぱい涙をためて御放送をお聞きしました。
 昭和十六年十二月八日に宣戦の詔書をお降しになってから四年餘りもきちく米英と戦ひつひに八月一四日に戦争がやめになりました。この四年餘りの間私達は、勝ちぬく為にがんばりました。又一四日からみんな元気をうんと出して、この日本をになって行くのは私達小國民であります。日本はほろびたのも、私達臣民が悪く又工夫が足りない為だと思ひます。
「アメリカの原子爆弾よりも、もっともっとよい爆弾が出来てゐたら」と私はいつも思ってゐます。

 また、別の児童はこう書きます。

 昭和二十年八月十四日正午十二時から忘れも出来ない詔書をお下しになった天皇陛下の御聲どんなにつらかったことでせう。
私達も涙いっぱい目にこもってしまひました。あくる日學校に来て先生のお話をお聞きしているとき始めの時はがまんが出来ましたが話をしてくださってゐるさい中先生も目に涙をためて涙が光っているお友達も皆聲を立てて泣くばかりとまりませんでした。さうして先生は一生けんめいに詔書を讀んでくださるあとを私達もついて行きましたあのかなしいこと何十年何百年たっても、私達は忘れません。だから私達は、遊ぶことや悪いことはいっさいやめて勉強運動にはげみます。さうして、つらいかなしいことばかりでなく又いつかよい日もくるでせう。
残念で残念でたまりませんが、そこをこらへてしっかりがんばって忠義をつくします。

 この作文を、5年生、10歳前後の子供が書いたとはまったく想像できません。
 よく言えば起承転がきちんと押さえられていますし、悪い風に言えば、様式性が ~もちろん軍国主義的な~ 非常に強い作文であって個人の本心は二の次だとも思えます。(確か、丸谷才一はこのような形式的な作文が一般的だったことをもって戦前の国語教育を批判していました。)
 
 むしろ、別の子が書いたこの作文のほうが素直な感じがします。

 私はラヂオのそばに立一度さいけいれいをして、お聞ていました。すると、なんとなく涙がこぼれて来ました。私は放送がそんなに聞ませんでしたから、なにかしら、天皇陛下の御言をお聞するのですからなにだらうと思ってゐました。
すると弟は走って来てお母さんこうさんしたぞ、といひました。するとお母さんはびっくりしてさっきの放送は、むじゃうけんこうふくだといって、看板を見にい来ました。するとかんばんの所で皆も泣けとかいてありました。私はなんといふむずかしいことばだろうと思っていました。すると、よその人が来て、ほんたうに天皇陛下の御言葉は、今始めてだ。ほんたうにもつたいない御言葉だといつていました。

 この本には5年は組の43人分の作文が収録されていますが、ではそもそも、なぜこのような作文が残っていたのでしょうか。そして、平成7年になって世に出ることになったのでしょうか。

(つづく)

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