2017年1月11日水曜日

新元号は「やまとことば」で

 今上天皇が譲位を強く希望していることを受けて皇室典範の改正議論に入っている政府は、平成31(2019)年1月1日に皇太子が新たな天皇に即位するとともに、同日から新しい元号とする方針であることを各紙が報じています。
 記者会見で「平成」と毛筆で書かれた紙をかざしている小渕恵三官房長官(当時)の絵づらをわしも強烈に記憶しているのですが、その時に「平成」の由来は古代中国の歴史書「書経」の虞書(ごしょ)・大禹謨(だいうぼ)、及び「史記」五帝本紀中にある、「地平かに天成る」から命名したことも広く報道されました。
 ウィキペディアなどを見ると、「昭和」という元号も四書五経の書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」(百姓(ひゃくせい)昭明(しょうめい)にして、萬邦(ばんぽう)を協和(きょうわ)す)からの命名。
 「大正」は易経 彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」(大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から。
 「明治」も「易経」にある「聖人南面而聴天下、嚮明而治」(聖人南面して天下を聴き、明に嚮(むか)ひて治む)から命名されています。
 元号は中国の古典から命名しなくてはいけないという法律はなく、あくまでも慣例のようですが、今回の天皇譲位による新元号もやはりそれを踏襲するのでしょうか。


 わしはそれには疑問なしとしません。

 もちろん中国の古典に代表される漢字文化は、環東アジア文化圏の基盤とも呼ぶべきものであって、誇り高い日本の文化も漢字、漢文なくして発展がなかったであろうこともまた明らかです。
 漢字はしょせんは中国人が作った外来の文字、外国語に過ぎないとしてこれを排斥しようという声も根強くありますが、加藤徹氏が言うように「漢字漢文はコメのようなもの」です。漢字・漢文の忌避は、「コメは中国大陸から伝わってきた作物なのだから、コメの飯を食べるのはやめよう」と言うのも同じことです。(「漢文の素養」光文社新書)
 漢字・漢文は汎民族的な、グローバルな世界観や価値観を持つものも多く、これらが日本の文化から消え去ることはないでしょう。

 しかし、それを認めたうえでも、一度、中国の古典から引用することは保留し、日本の古典からの引用、もっと言えば、「やまとことば」で考案してみてはどうかと思うのです。

 理由の一つは、そうは言っても、日本が環東アジア文化圏の共通語としての漢文を引用するということに対し、かの国が「漢字は我が国の文化である。日本人は我が国の古典を引用して有り難がっている、文化的に隷属した国である。」といったデマを拡散し、わが祖国を貶める奇貨としようと窺っているように思え、気色が悪いからです。
 文明発祥の地の盟主として王道を行くのでなく、覇権主義、拝金主義をひた走るかの国は、もはや世界中から軽蔑されています。一線を画すことも考えねばならないと思うのです。

 もう一つは、日本にも独自の長い歴史で培われた文化があります。物語、随筆、和歌、謡など多くの文学作品があり、美しく健気な言葉も多くあります。これらから新しい時代にふさわしいキーワードは見つけられるのではないでしょうか。少なくともその努力はするべきです。

 最後の理由は、これもある意味矛盾しているのを自覚してのことなのですが、元号の使用はコンピュータ化があらゆる生活の局面で浸透する中、やはりこれから先、使用頻度は減っていき、国民への浸透は浅くなっていくことが避けられないと思えることです。ありていに言って、通算が簡単な西暦にくらべて、元号がいくつも重なってくると即座に計算することは困難です。
 そうした中で、国民に「時代の区切り」、「時間軸のひとかたまり」としての元号を強烈に印象付けるには、漢字2文字のお固いイメージでなく、柔らかい言葉であることで国民にもよく使われるようになる ~使ってみたくなると言うべきでしょうか~ と思われるからです。

 ただ、もちろんわしにも、これがいい、という具体的なアイデアなどありません。そのようなことは僭越ですし。
 しかし、絶対にやめてほしいのは元号を国民から「公募」するような決め方です。仮に元号を考案すべき時期に人気取りのポピュリストが政権を取っていた場合、実際にやりかねないと思うからです。


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