2017年2月4日土曜日

五輪塔を比較してみる その1(マニアック)

 伊勢はなかなかに歴史が奥深いところです。
 伊勢神宮があるために神話の時代から歴史の表舞台に登場しますし、古いものが街なかに何気なく存在しています。中には長い間に史実が埋もれてしまい、今ではこれが何なのか、目的や由来がわからなくなってしまっているものもあります。
 その典型が、伊勢市楠部町にある石造の五輪塔 大五輪(おおごり)の五輪塔 ではないかと思います。恥ずかしながらわしも先日初めて行ってみたのですが、住宅地の中に忽然とそびえている巨大な五輪塔はまさに異空間であり、圧倒されるような迫力があります。
 この塔も、誰が、いつ頃、何のために建立したのか判然とせず、今までさまざまな説があったようですが、近年になって奈良市の西大寺と関係がありそうだという説が有力となり、神道の拠点である伊勢に仏教が深くかかわっていたことが知られるようになりました。
 観光ルートから外れているため、この五輪塔をほとんどの観光客は目にしていないであろうことは残念なので、簡単に紹介しておきます。(マニアックな内容です)


 五輪塔は住宅に囲まれた清丸稲荷神社という小さなお社の境内にあります。花崗岩製で高さは3m40cmもあり、江戸初期以前の古塔としては県内最大のものだそうで平成23年に三重県の有形文化財に指定されました。 
 

 五輪塔は一般的には仏教様式のお墓や供養塔ですが、この大五輪の五輪塔は江戸時代後期にはすでに農地の中にぽつんと建っている状態だったようで、当時から建立の時期や目的には諸説があったようです。

 一番有力だった説は、室町時代に伊勢神宮・外宮をいただく山田と、内宮をいただく宇治が、宗教上や経済上の理由から紛争となり、死者が出るほどの武力衝突をたびたび繰り返した「宇治山田合戦」の供養塔であるというものです。(勢陽五鈴遺響など)

 しかし平成20年に山形大教授で宗教史研究者の松尾剛次氏が調査を実施し、奈良の西大寺を復興するなど13世紀に活躍した高僧 叡尊(えいそん)の弟子が鎌倉時代に造ったとする説を発表し、にわかに注目されるようになりました。

 叡尊は、法然や親鸞、日蓮などと並び称される鎌倉新仏教を代表する宗教者です。
 戒律の実践を旨とする真言律宗を再興して多くの寺院を復興したほか、貧困者やハンセン氏病患者の救済といった社会事業にも取り組み、その死を悼んだ伏見上皇から「興正菩薩」の尊号を贈られたという偉大な人物。
 伊勢神宮には3回も参詣していますが、有名なのは「元寇」を撃退するため弟子たちと行った祈祷です。彼は仏教者としてモンゴル兵を殺すのでなく、大風で船を追い返すことを祈ったところ、そのれが天に通じて蒙古は撃退され、叡尊の法力は天下にとどろくことになりました。

 この五輪塔がある付近には、当時、弘正寺という真言律宗の大きなお寺があったそうです。天照大神は大日如来を本地仏としており、内宮は胎蔵界を、外宮は金剛界をあらわしていると説く、神仏習合の一種である「両部神道」の拠点となっていました。

 伊勢神宮は仏教が禁忌であり、たびたび神仏を峻別すべきとの禁令が出されました。しかし実際には神と仏は同じ存在であるとか、神はまだ煩悩を解脱した状態ではなく完全な解脱には仏の救いが必要であるとか、仏法を広めることは神の意思でもあるとかいった神仏習合は広く浸透して一般常識となっており、多くを信仰に依存していた当時の貴賤の生活で、両者を峻別することは無意味でした。

 京都の醍醐寺も伊勢神宮に法楽舎という加持祈祷の施設を設けるなど、今からは想像もできないほど多くの寺院が伊勢神宮周辺には建ち並んでいたのです。

 さて、松尾教授によれば、この大五輪の五輪塔は球体部分である水輪の加工技術の特徴が、1300年前後に叡尊の弟子が造った鎌倉の極楽寺のものと一致したことや、3.4mという高さが西大寺に現存する叡尊の墓(五輪塔)に匹敵する大きさであることから、鎌倉時代後期に建立され、叡尊の遺骨が分骨された可能性があると考えられるとのことです。
 
 この話に興味を持ったわし、年末に奈良の西大寺にも行ってきました。

(つづく)

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