2017年4月15日土曜日

仏都・伊勢を往く(古市街道編)その1

 4月も半ばですが、例年になく桜の花が長く咲き続けてくれています。そんな桜をめでつつ、伊勢神宮の外宮から内宮まで、途中にあるお寺や仏教史跡めぐりを中心にハイキングしたのでレビューします。

 このブログでは何回も、外宮と内宮の間を歩いた記事を書いています。外宮・内宮間の徒歩ルートは、御木本道路経由(最短コース)、御幸道路コース、そして古市コースの主に3つがありますが、明治初期の廃仏毀釈以前の仏都伊勢が偲ばれるのは江戸時代のメインルートであった古市(参宮街道)コースなので、今回はここを歩きました。グーグルマップはこちらです。

 スタートは外宮です。本殿を参拝して、歩行中に高齢者のペダル踏み間違いとか、イキっている兄ちゃんの暴走自転車に轢かれないよう交通安全を祈願し、スタートしました。

 まずは外宮広場前の真ん前にある御木本道路(県道32号線)を右側(南方面)に進みます。200mほどで「岡本1丁目」という交差点があるので、ここを左折します。


 左折すると、その向かい側に「祖霊殿」(神道式の葬儀を行う斎場)があるので、その横の道に右折します。「旧参宮街道」「古市方面」と書かれた看板があるので、間違えることはないと思います。
 祖霊殿の一角に「永代常夜灯」という大きな石塔が建っていますので、この写真を左方向に進みます。


 たくさんのクルマが走っている御木本道路から一本脇道に入っただけですが、ほとんどクルマも人も通らない静かな住宅地です。江戸時代はここが参宮街道だったとのことです。


 300mほど進むと、ちょっとした広場がある「小田橋」(おだのはし)があります。
 この橋は外宮周辺の鳥居前町である「山田」と、今から進む尾上、古市といった地区との結界であり、「穢れ」を避けるために月経中の女性や仏教者などは本橋とは別の仮橋を渡らなければならなかったそうです。


 小田橋を渡ると、すぐ右手の高台には「妙見堂」の跡があります。鎌倉時代後期、京都・醍醐寺の僧で伊勢神宮祭主大中臣隆道の子息であった通海などが、伊勢神宮(内宮)の祭神である天照大神は妙見菩薩が垂迹したもので両者は同体であると提唱し、こうした神仏習合的な考えは急速に全国に定着していきました。
 外宮の禰宜の世襲家系である度会一族がここに妙見堂を建立し、かの日蓮もここを参詣したことがあるそうです。(現在は廃寺。くわしくはこちらを)

 また、妙見堂への入り口を過ぎて古市街道を進むと、右側に寿厳院(じゅがんいん)という浄土宗のお寺もあります。山門まで立派な石段が続いています。


 ここは阿弥陀如来をお祀りしているほか、子供の夜泣きに霊験あらたかな「眠地蔵」、病人の身代わりになる「身代わり地蔵」が有名だそうです。明治の廃仏毀釈を耐えて現在まで法燈を守り続けておられます。

 街道をそのまま進むと、起矢食堂を過ぎたあたりから上り坂になってきます。尾上坂(おのえざか)と呼ばれています。


 今のこの様子からは想像することが困難ですが、江戸時代には街道沿いのこの付近は「間の山」(あいのやま)と呼ばれ、三味線や胡弓を弾いて猥歌を歌う女の芸人たち(必ず二人組で、お杉お玉と総称されていました)や、ササラで踊る子供、扇や籠を持って踊る芸人などが蝟集していました。
 当時すでに全国的に広く知られた大道芸エリアであり、今も各地に残る伊勢参宮道中記のほとんどに、ここでお杉お玉に投げ銭をした、といった記述が残っているほどです。


 江戸時代中期に書かれた旅のガイド本である「伊勢参宮名所図会」にも間の山の賑わいが詳述されています。

国立国会図書館デジタルコレクションより

 とまあ、往時の賑わいに思いを馳せつつも、まだこれでは「仏都」というほどのインパクトがありません。


 街道をさらに登っていくと、ちょっと平地になって三叉路があります。仏都をさらに強く偲ぶにはここを左折(写真の白い車が進んでいく方向)していく必要があるのです。
 観光案内板には、左に行けば弥生時代の集落跡である「隠岡遺跡」があると表記されていますが、わしが向かうのはそこではありません。
 伊勢でも有数の名刹だった常明寺(跡)を避けて通るわけにはいかないのです。

■はんわしの評論家気取り

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