2017年4月16日日曜日

仏都・伊勢を往く(古市街道編)その2

 尾上坂を登ってやや一服した平らな地点、倭町(やまとまち)のバス停とかフラワー薬局がある三叉路を、左に(北方面に)進みます。今度はだらだらと続く下り坂になります。両側には家が建ち並んでおり、道幅が狭いわりにクルマはよく通るので注意が必要です。(グーグル地図はこちらです)

 この道を400mほど進んでいくと、左側に本願寺伊勢教院が見え、その反対面、右側にこんもりとした森というか高台が見えてきます。
 ここが常明寺(じょうみょうじ)です。
 「倭姫命御陵」という石柱と、「常明寺跡」という石柱が微妙な距離で二つ並んで崖の斜面に建っていて、気を付けていれば目に留まるでしょうが、普通に車で走っていたら、まず気にもかけないような緑地です。


 しかし江戸時代、ここ常明寺は伊勢でも有数の名刹でした。創建は聖徳太子という説もあったようですが、伊勢神宮・外宮の神職を世襲していた度会一族の「氏寺」であったため、神仏習合が進んだ平安時代末期から鎌倉時代に創建、もしくは中興されたものではないかと思います。
 常明寺がその名をとどろかせたのは、源平の合戦によって焼失した、東大寺の大仏と大仏殿を再建する役割(大勧進)を命じられた僧・重源が、700人ものミッションを従えて大仏再建の成功祈願のために伊勢神宮を訪れ、ここ常明寺で仏事(法楽)を行ったことです。文治2年(1186年)4月のことでした。
 この目的は、当時の土木建築技術の最高水準を超える難工事を無事に成功させる祈願と共に、すでに平安時代末期には再建に必要な木材や瓦などの物資を東大寺や朝廷だけで集めることは不可能であり、伊勢神宮の経済的な援助がどうしても不可欠であったことによる政治折衝の意味もあったようです。
 が、それはさておき。

 今は倭姫命御陵と、神落萱神社と金毘羅神社の境内となっている跡地に入ってみます。
 すると、いきなり厳重に柵で仕切られたものものしい雰囲気になります。倭姫命御陵は正確には「宇治山田陵墓参考地」というらしく、宮内庁の所管であるため、このエリアだけは立ち入り禁止になっているのです。


 畏れ多いことですが、柵の隙間から中をのぞいてみると、うっそうと木が茂ってはいますが確かにこんもりとした塚状のものが見えます。これが御陵、つまり古墳なのでしょう。
 神落萱神社と金毘羅神社へは、その先に続く参詣道を進んでいきます。


 この2社とも素朴なお社で、寄付金賛同者の名簿がずらずらっと張り出されていました。もっと寂しいところかと思ったのですが、意外に?散歩がてらの地元の方々でしょうか、入れ代わり立ち代わりやって来て、誰もいなくなることはありませんでした。
 お参りして、ふと脇のほうを見ると「子育て地蔵尊」という祠が見えました。
 由緒書きによれば、「明治の初め、神落萱神社に子授け祈願に来た夫婦が、(廃仏毀釈で)廃寺となっていた常明寺の瓦礫に埋もれている地蔵様を見つけ、丁寧に洗い清め、神社の裏手の樹の下に安置した。その後、夫婦には子が授かったため、これはお地蔵様のおかげと感謝し引き続きお参りすることにした。」とのこと。それ以来、お祀りは代々引き継がれ今に至っているとのこと。現在の祠は、地元有志の寄付で平成21年に建てられたものだそうです。


 心温まる話です。明治政府が権力をかさに着て廃仏毀釈を断行しましたが、人々の素朴な信仰を奪い去ることはできなかったのでしょう。
 それにしても、江戸時代の伊勢参宮のガイドブックである「伊勢参宮名所図会」に隆盛を極めていた様子が活写され、仏都伊勢の象徴だった常明寺も、明治の初期には瓦礫となっていたのですね。

国立国会図書館デジタルコレクションより

 この絵の中には、御陵が倭姫命が隠れた「岩窟」として右端に、神落萱神社は左上に描かれていますから、本当にここ一帯、全部がお寺だったのです。
 わしも何か名残はないかとぶらぶら境内を歩き回っていたのですが、手水鉢に「常明寺門前」とあるのを見つけました。元禄11年(1698年)に寄進されたと記されています。


 廃仏毀釈は明治4年の太政官布告が嚆矢なので、常明寺の廃絶もそのころと思われます。今から150年近く前のことにはなりますが、名刹であった常明寺はついにこの間、再興されることはありませんでした。


 考えさせられるのはこの点です。江戸時代の伊勢には最盛期で百数十もの寺があったとされています。神仏習合が常識だったので、御師(おんし。伊勢神宮の神職で、参詣者の参拝や祈祷のほか、接待や宿泊の世話も行っていた。)の邸宅や神社にあったお堂とか、辻の地蔵堂のようなものもすべてカウントされていたのかもしれませんが、ほとんどが廃絶した中でも、その1で紹介した寿厳院とか、ほかにも世義寺や松尾観音寺といった多くのお寺は再興して今も法燈が守られています。
 一方で、常明寺のように再興されなかったり、わしがこの次に行った弘正寺(こうしょうじ)のように江戸時代までには廃絶してしまった寺もあったのです。伊勢神宮に依存しすぎていたため、神仏の分離が徹底されると、独自の仏教的理念とか信者の支援が成り立たなくなってしまっていたということなのでしょうか?

 さて、今来た道を ~行きと逆なので、だらだらした上り坂を~ 三叉路まで戻り、古市街道をさらに内宮方面に進むことにします。
 数分で、古市郵便局の交差点に着きます。ここも信号がないわりに、3方向からクルマがどんどん入ってくるワイルドな三叉路です。


 ここをまたまた左に寄り道します。
 三叉路から2~3分で、右側に「公文式」の看板が見えてきます。ここの脇道を入ると、正一位清丸稲荷神社と書かれた赤い鳥居があり、この境内に 大五輪(おおごり)の五輪塔 がそびえています。


 この五輪塔については以前もこのブログに取り上げました。建立された記録がなく、塔石に刻銘もないため、誰がいつ、何の目的で建てたのかが不明なのです。
 長らくこれは15世紀ごろ、内宮と外宮の対立をきっかけに宇治地区と山田地区の武力紛争となった「宇治山田合戦」の戦死者を供養する塔と考えられてきました。
 しかし、最近の研究で、これは鎌倉時代の高僧・叡尊(えいぞん)が率いる真言律宗の教団が、やはり伊勢神宮で法楽を行うためこの付近に建立していた弘正寺の遺構だという説が有力なようです。
 高さ約3m。室町時代初期(14世紀?)に建立されたとしたら700年間近くここに建っている五輪塔の存在感は圧倒的で、仏都伊勢が強く実感できるスポットです。

■はんわしの評論家気取り 仏都・伊勢を往く(古市街道編)その1(2017年4月15日)

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