2017年4月23日日曜日

仏都・伊勢を往く(弘正寺編)下

(承前)仏都・伊勢を往く(弘正寺編)上
 さて、せっかく発見できた「弘正寺跡」の碑ですが、本当に「ぽつねん」とあるだけで、これ以上ここにいてもしょうがないので、この場所から400mくらい離れた弘正寺墓地に行ってみることにします。
 わしはここに墓地があることはずいぶん前から知っていましたが、弘正寺と関係がある ~かつて境内の一部だった~ ことは、やはり松尾剛次山形大教授の「新たなる伊勢中世史像の再構築」の講演録で初めて知ったのです。
 御弔いではない興味本位で墓地をうろつくのもどうなのかとも思ったのですが、それはまあ、仏都・伊勢の検証活動ということでご容赦いただきたく。
 この墓地には、一般のお墓に交じって古い五輪塔が30基以上も現存しています。
 松尾さんによれば、叡尊が率いる真言律宗は石工集団を組織しており、全国に多くの石造物を建立したことで知られ、これらの五輪塔群も弘正寺と関係が深い、おそらくは弘正寺歴代住職のお墓ではなかろうかと推測されるそうです。

 こんな感じ。
 一種、異様な風景ですが、怖いとか気味が悪いという感じではありませんでした。


 貴重な歴史遺産なので案内板くらいあっても良いようにも思いましたが、いくら古いものとはいえお墓なので見世物でもなかろうし、難しいところです。
 
 しかし、実際にこの五輪塔群を見てみると、大五輪の五輪塔(高さ3.4m)がきわだって巨大であることが不思議に思えます。
 叡尊教団の五輪塔は、①空風輪が大きい、②地輪、水輪、火輪を側面から見ると端が縦に一直線になる、③火輪軒端の反りが強い、などの6つの特徴があるそうです。
 そのうえで、デザインの違いなどから3つのタイプに細分化されますが、大五輪の五輪塔は京都府にある木津惣墓五輪塔ときわめて類似しており、いずれにせよ鎌倉時代末期に叡尊教団によって建てられたものと推測されるとのことです。


 大五輪は現在の住所表示では伊勢市楠部町ですが、この周囲一帯は一般的に「古市」(ふるいち)と呼ばれ、江戸時代は日本最大級の歓楽街であったことは前回のブログにも書きました。
 しかしもっともっと古い昔には、「古市西北の経ヶ嶺から尾上町青雲院の山にかけては死者を埋葬する場所」だった時代があったらしく、古市の地名も「古穢地」が転じたものという説もあって、死や死体は穢れたものとして強い禁忌となっていた伊勢神宮にとって、こうした墓所の管理は重要な問題でした。
 これに対して、叡尊教団すなわち真言律宗の僧侶は、日常から戒律を厳守していました。それゆえに死体に触れても穢れることはなく、宗教的な清浄が保たれると主張しており ~もしくは周囲からそう信じられており~、弘正寺も古市の墓所の管理に何らか関わる立場として伊勢神宮を補完していたと考えられるとのことです。

 松尾さんの講演内容でもう一つ興味深いのは、叡尊教団は鎌倉幕府から天竜川(遠江)や高野川(下総)の維持管理を命じられるなど、川に橋を架けて管理する代わりに関銭(通行料)を徴収する権利が認められていた事例が各地にみられたことです。
 伊勢国には安濃津(現在の津市)にも円明寺という真言律宗の有力寺院があり、ここは博多、坊津と並んで日本三津と呼ばれた安濃津湊の港湾管理と、岩田川(岩田橋)の管理を担っていたと考えられるそうです。
 そうすると、弘正寺も重要な流通ルートであった安濃津の管理に何らかの関わりがあったのではないかとのことです。


 松尾さんはその理由として、弘正寺が五十鈴川のすぐ近くに位置していて、船を使えばここから海(伊勢湾)に出て津に行くことが比較的容易なことを挙げます。
 たしかに、弘正寺跡のあるJA伊勢支店四郷は五十鈴川にほど近い場所で、歩いてすぐに五十鈴橋がかかっています。こう考えると、戦国時代、戦乱で長年中絶していた伊勢神宮の御遷宮や内宮宇治橋の架け替えが、慶光院など仏教者の勧進(募金)によって復興できた、それよりも以前に、湊や川の管理、それを通じた経済活動の側面で、伊勢神宮と仏教団(叡尊教団)は連携・補完関係にあったと考えられるのかもしれません。

 何にしろ、今までよく知っていると思っていた伊勢市楠部町あたりに、かつては弘正寺という大寺があって、日本中から僧や参詣者を集め、政治的にも重要な役割を果たしていた歴史があったと知ったことは、わしにとってたいへんエキサイティングなことでした。

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