2017年4月30日日曜日

仏都・伊勢を往く(金剛証寺編)下

(承前) 仏都・伊勢を往く(金剛証寺編)上

 朝熊岳山頂付近にある経塚群には、金剛証寺の本堂(摩尼殿)前を右手に参道を進んで行き、奥の院への入り口にあたる「極楽門」の手前、「八大竜王・経ヶ峯参詣道入口」という看板がある門から登っていきます。
 看板によると、かつてこの辺りはスギやヒノキの巨木がうっそうと茂り、昼なお暗いほどでした。明治27年に老樹の根から平安時代末期、1173年(承安3年)という名がある経筒が出土し、経塚の存在が知られるようになりました。
 しかし、この経塚の本当の価値が認められるようになったのは、昭和34年に三重県を襲った伊勢湾台風がきっかけです。暴風雨によって木々はことごとくなぎ倒され、経ヶ峯ははげ山になってしまいました。倒木整理の作業中に多くの経筒や副納品が出土したのです。


 経塚とは、お経を書いた紙を陶器や金属でできた経筒に封入し、それを地下に埋めた塚のことです。極楽往生や一門の繁栄などを仏に祈願するため、永久にお経が残るように堅牢な経筒が作られ、埋められました。もちろん、こうした経塚は全国各地にみられます。
 参詣道入り口から山道を歩くこと10分ほど。このような看板が出てきます。


 指し示す方向に100mほど進むと、経塚群に着きます。
 石塔があちこちに散在し、不気味というか何というか、尋常ならざる雰囲気を漂わせています。
 

 伊勢湾台風後にここから出土したのは陶製の経筒や経甕、金銅製の経筒、鏡や杯、合子(お香を入れる容器)といった副納品など40点あまり。一部は国宝に指定されました。
 経筒には誰がいつ奉安した(埋めた)のか刻まれているものがあり、1156年(保元元年)から1186年(文治2年)までの間に埋められたものであることがわかりました。
 平治元年(1160年)の銘が残る経筒には、真妙という比丘尼により法華経の巻物など13巻が収納されていました。そして埋経の目的には「(埋経の4カ月前に死去していた)伊勢神宮・外宮の禰宜、度会雅彦の極楽往生を願ったもの」であることも併せて書き残されていました。

 また、承安三年(1173年)の銘がある経筒には、同じく伊勢神宮・内宮の権禰宜であった荒木田時盛の「後生安穏太平」を願ったものであることが刻まれていました。
 つまり、この2例とも埋経という仏教行事の願主が伊勢神宮の神職だったのです。

 
 これは、今から考えると奇妙なことのように思えます。伊勢神宮は創建以来、外来宗教である仏教を忌避しており、仏を「中子」、お経を「染め紙」、僧侶を「髪長」と言い換えるなどの忌み言葉が用いられるほどでした。仏教者による神宮参拝にも制限が加えられていました。
 それほど厳格に仏教と神道を隔離していた伊勢神宮の神職が、なぜこのように仏教に帰依していたのでしょうか。

 伊藤聡茨城大教授によると、
・神域内での仏教忌避が神職(神官)の反仏教的姿勢を意味するわけではないことに注意が必要。神官とて仏法による救済を願うのは当時の貴族、官人、庶民となんら変わらなかった。
・そもそも神官は僧尼と同じ意味での宗教者ではない。神事においてのみ祭祀者なのであり、それを離れれば現世、来世で仏菩薩の利益を願う俗衆に過ぎない。
・救済を(仏でなく)神に願おうとしても、伊勢神宮は個人祈願を受け付けない(私幣禁断)。神官個人の来世を頼むべきは、やはり仏法しかない。
 と考えられるそうです。(「神道とは何か」中公新書)

 特に平安時代末の日本は、釈迦の死後一定期間が経過して、仏法が衰退し、人々は堕落して人類が終末に向かう「末法」の世に入ったと考えられていました。極楽への往生を祈る阿弥陀信仰が盛んになっていた時代で、その思潮は伊勢神宮にも押し寄せていたのでしょう。
 このためか、経塚への埋経のほかに、神官の一族が氏寺を建立したり、神官引退後に出家して僧になることも広く行われていました。平安時代の終わりには、まさに神仏が習合した状態が伊勢神宮でも浸透していたわけです。今では想像することさえ困難ですが、これは歴史的な事実なのです。

 さて、伊勢湾台風の被害によって、ヒョウタンから駒のように見つかった貴重な経塚群ですが、整備から50年以上たって、復元整備された石塔にもかなり傷みが目立ちます。中には転倒しているものもあります。


 金剛証寺に比べて知名度は今ひとつではあるものの、この経ヶ峯は国史跡です。伊勢神宮の神職をはじめ、平安時代の人々が来世の幸せを願ってこれだけのことを行った地を、ぜひ多くの方に訪れていただきたいと思わずにはおれません。

 さてこの経塚からさらに歩くこと10分。
 朝熊岳の山頂に到着します。ここは公園のようになっていて、NHKのアンテナ塔が建っています。また、小さな池があって、龍神を祀った八大竜王社があります。


 東の方角を見ると、伊勢市、鳥羽市の市街地と、伊勢湾口に点在する島々、さらに対岸の渥美半島、知多半島が見下ろせます。


 世の中のさまざまなものが移ろっても、この美しい景色だけは古来変わっていないはずです。1000年前に埋経に携わった人々も、経文を神仏に捧げるべき場所にここがふさわしいと信じ、この景色を見ていたはずです。深い感慨に打たれます。 

(はんわし注)金剛証寺から経ヶ峯、八大竜王社までの道は未舗装の登山道なので、革靴、ハイヒール、サンダルなどは避けたほうが無難です。

2 件のコメント:

イセオ さんのコメント...

小学生くらいの頃に祖父と父とで行ったことがあります。もう20年も昔です。子供には宗教的価値は理解できずただただ薄気味が悪い印象しか残っていません。今度機会があったらぜひ見直してみます。情報をいただくことができ、感謝です。

半鷲(はんわし) さんのコメント...

イセオさま、ぜひせひ!