2017年5月20日土曜日

仏都・伊勢を往く(蓮台寺編)

 平安時代中期、世界が終末に向かうという、いわゆる「末法思想」が貴賤を問わず人々に広く信じられていたころ、伊勢神宮でも神仏習合が進ん多くの寺院が建立されて、読経や祈祷などの仏事(法楽)が盛んに行われるようになりました。
 伊勢神宮の神官が仏教に帰依することも珍しくなく、先月書いた 仏都・伊勢を往く(金剛証寺編) で取り上げたように、伊勢志摩の最高峰である朝熊岳の山頂には平安時代に神官が願主となってお経を奉納した経塚が今も残り、国宝に指定されています。
 伊勢神宮の高級神官(祭主、禰宜)の一族がお寺を建立した例も多く、今日取り上げる蓮台寺(れんだいじ)もその一つです。
 蓮台寺というと、多くの方は柿を思い出すことでしょう。伊勢市内で盛んに栽培されている特産の柿で、実際に「蓮台寺」と検索すると、ヒットするほとんどは「蓮台寺柿」に関することです。
 この柿ももともとは蓮台寺の僧が伝えたものだそうですが、肝心のお寺のほうは明治初年に伊勢(宇治山田)で吹き荒れた廃仏毀釈によって、明治2年に廃寺となってしまいました。

 蓮台寺は平安時代の正暦年中(991~994年)に、伊勢神宮の祭主であった大中臣永頼(おおなかとみながより)が建てたお寺です。
 祭主とは伊勢神宮にのみ置かれる高級神官で、祈年祭と6月、12月の両月次祭、神嘗祭の大祭に、天皇の代わりに奉幣使として参向する重要な役割を果たします。
 この役職は藤原鎌足に連なる家系の大中臣家が世襲しており、正暦2年(991)から、第17回の内宮式年遷宮が斎行された長保2年(1000)まで祭主を務めたのが大中臣永頼。彼はまた、敬虔な仏教徒でもありました。

 鎌倉時代前期の書物である「古事談」には、「伊勢国蓮台寺の事」という章(巻5-51)があり、この長保の式年遷宮の時とみられる次のような説話が記されているそうです。(神道とは何か 伊藤聡著 中公新書より)
・伊勢国蓮台寺は祭主永頼が建立したものである。
・永頼は祭主の立場上、仏事は憚ってはいたが、そのことを常に思い悩み年月を送っていた。
・そこで起請(はんわし注:永頼は遷宮の直後に死去するので、死期が近いことを悟っており、後生のため念仏などの仏事に専心したいというお願いを天照大神に行った)するため内宮に参籠したところ、夢の中で御殿の扉が開いた。
・驚いて見ると三尺の金色の観音像であった。これにより建立したのが蓮台寺である。 

 天照大神の本地仏については、大日如来であったり、阿弥陀如来であったり(津観音寺の国府阿弥陀像や、神宮寺の丈六阿弥陀仏像)といろいろな説がありますが、ここでは観音菩薩ということになります。
 また、お寺の建造年と、参籠して天照大神から夢告を受けた年が食い違いますが、まあそこはさておき。

 いずれにせよ、蓮台寺は伊勢神宮内宮に近く、山容が特徴的でいにしえから和歌によく詠まれた鼓が岳という山のふもとに建てられました。伊勢市勢田町付近です。

 今はお寺は完全に姿が失われ、それどころか高度成長期には跡地一帯が住宅団地に造成されて、高台の閑静な住宅街 ~ところどころに柿畑が残る~ になっています。
 わしはこの住宅団地の奥のほうにある公園が蓮台寺公園と名付けられていることを知り、いろいろうろつきまわって、柿畑の一角に石碑が建っているのをようやく見つけました。


 これから盛夏になると道に草が生い茂るでしょうし、秋に行くと柿ドロボウと間違えられるかもしれないので、今がちょうどよい時期だった、と思いました。

 三重の歴史・文化散策マップによると、江戸時代の元禄期(1688~1703年)に近くの鎮守の社跡から瑞花蝶鳥八稜鏡と呼ばれる古鏡一面が発掘されました。これは唐鏡から和鏡へ移る過渡期の9世紀から10世紀のもので、おそらくは伊勢神宮の撤下品であろうと思われるとのことです。
 鏡は地鎮具と推測されるそうなので、ご神体として礼拝の対象になっていたものではないのでしょうが、おそらく観音菩薩像と別の鏡とが共に祭られていたのではなかったのでしょうか?

 ちなみに、蓮台寺の廃寺後、観音像は同じく伊勢市勢田町にある中山寺に移され、現在はここで祀られているとのことです。

■はんわしの評論家気取り 伊勢のお寺巡り(不定期連載・その1)(2013年11月23日)

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