2017年7月4日火曜日

赤福、外宮前に「第二おかげ横丁」を整備か

 先月だったか、日本経済新聞の中部経済板に、「三重県の優良企業」みたいな連載記事があり、赤福の濱田益嗣会長のインタビューが載っていました。濱田会長は昭和30年代の高度成長期に、必ずや日本にもレジャーブームが巻き起こること、そしてその中でも伊勢詣でのような「心の観光」が強みになるであろうことを確信し、伊勢の小さな餅屋に過ぎなかった赤福の大量生産と流通網拡大に巨額を設備投資し、大々的なテレビコマーシャルによって伊勢名物・赤福のイメージを消費者に刷り込むことに成功しました。平成に入ると「おかげ横丁」の企画、構想、開発の陣頭指揮をとり、今や年間500万人以上の観光客が訪れる、日本を代表する複合テーマパークに成長させています。
 平成19年には赤福が賞味期限を改ざんしていた「赤福偽装事件」の責任を取る形で社長を退任しましたが、今でも、おかげ横丁のデベロッパー会社である濱田総業の会長として伊勢志摩の経済界に隠然とした力を持っていると言われています。
 それゆえに日経新聞も齢80になるという濱田氏のインタビューを取ったわけでしょうし、昨日(7月3日付け)の日経MJにはそのダイジェスト版である「第2のおかげ横丁」なる構想が大きく取り上げられていました載っていました。


 ご承知のように、伊勢神宮には内宮(ないくう)、正式には皇大神宮(こうたいじんぐう)と、外宮(げくう)、正式名は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の2つの本殿があります。
 神話によると、今から2000年前に太陽の神であり、皇室の祖先である天照大神(あまてらすおおみかみ)が内宮に鎮座し、その数百年後になって、天照大神の衣食住を助けるために豊受大神(とようけおおみかみ)が招かれて外宮に鎮座しました。したがって、神様の格としては内宮が外宮に優位していることになります。
 
 しかし、実際には参詣者の多くは外宮に集中する時代が長く続きました。伊勢市の地形は外宮がある山田(やまだ)が平地で陸運、水運の便もよく、古来から都市が集積し、経済活動も活発だったのです。一方で、内宮がある宇治(うじ。京都の宇治とはもちろんまったく別)は谷の奥まった場所であり参拝が不便な土地条件だったのです。
 おかげ参りなどが大流行した江戸時代も、参詣者の多くは国家の安寧を祈るべき内宮よりも、衣食住、つまり農業や養蚕、機織りといった生業の神様であった外宮への信仰が厚かったのでした。
 これは明治になって鉄道が開通するとさらに決定的になり、少なくない人々が駅に近かった外宮だけに参って、内宮には参らずに伊勢を後にしていたのです。

 こうした内宮の地位低下、もっと言えば、土産物屋や飲食店、酒屋などが集積する鳥居前町(おはらい町)の地盤沈下への危機感が、冒頭の、濱田会長によるおかげ横丁構想につながっていったのでした。(クルマによる参詣が主流となった現在では、参拝者数は内宮が外宮を圧倒的に凌駕しています。)

 さて、日経MJによると濱田会長がおかげ横丁の次の目標として構想を温めるのが、外宮前に和風の建物による飲食店や土産物店、さらに祭りの拠点などを整備する「第2のおかげ横丁」です。事業費はまだ不明ですが赤福グループで出捐するつもりであり、用地の買収や、関係機関との調整などに要する時間を勘案し、次回の式年遷宮(20年に一度、伊勢神宮が社殿や鳥居などをすべて作り替え、新しい社殿に御神体を移す神事)である2033年を目標に置いているとのことです。

 外宮前は前回、平成25年の式年遷宮の際に街路の整備が進み、レストランや物販店などが多く新規出店し、夜遅くまで観光客でにぎわっていました。しかし、今では遷宮効果も去って、最盛期に比べてにぎわい感が薄れつつあります。しかも、伊勢の市街地は外宮の辺縁部に発展していますが、地方都市の御多聞に漏れず、多くの空き地、空き家が見られます。
 伊勢(山田)も古い町なので権利関係が輻輳しており、用地買収や建設工事は簡単ではないと思いますが、おかげ横丁のあの賑わいを見れば、同じようなものが外宮にもできれば、という待望の声は決して小さくないでしょう。今後、同計画が進展していくのか、わしもウオッチしていきたいと思います。

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