2010年1月31日日曜日

紀北町の映像で「尾道三部作」を思い出す



 先日の東紀州長期実践型インターンシップの懇親会では、紀北町を拠点に活動するNPO法人 ア・ピース・オブ・コスモス(APOC)が製作した紀北町のプロモーション映像を見せていただく機会がありました。
 これは、外国から芸術家を招いて地域に一定期間滞在してもらい、その土地をテーマにした作品を作ってもらうという事業により製作されたもので、APOCがアメリカから招いた映像作家アマンダさんが撮影・編集した作品です。
 紀北町でのロケには、紀北町の四季活魚の宿 紀伊の松島で長期インターンをしていた大学生が、土地勘もあり、英語も堪能なことからアテンドをしてくれたそうです。

 その関係で、ほぼ完成版の形(この映像作品は、紀北町内のAPOCの活動拠点で一般公開される予定とのこと)のビデオクリップを彼が持っており、懇親会の席上、パソコンで見せてくれたのです。


 その作品のオープニングは、真っ暗。
 漆黒の闇に、波の音と、その波が船底に当たる水音だけが聞こえます。
 このイントロダクションが数分間続き、まるで自分が海の上、小船に揺られているような錯覚に陥る頃、画面はぱっと明るくなり、紀北町の人々の何気ない生活の一こま、漁村の風景などが美しい映像で展開されます。派手なBGMはなく、人々は強い訛りで素朴にカメラに語りかけます。
 この素晴らしさを文章で伝える力はとても持ち合わせていません。機会があれば、完成した映像をぜひ実際にご覧いただければと思います。

 話は変わりますが、はんわしは帰宅後も、その素晴らしい映像の印象が強く残り、なぜだか1983年に公開された角川映画「時をかける少女」のことを思い出して、昨日はDVDを見てしまいました。
 懐かしかったし、いろいろ個人的な思い入れもある映画ですが、紀北町の映像と、実は共通する要素があったように思います。

 この映画も、監督の大林宣彦氏が自ら言うように、彼の故郷、広島県尾道市の何気ない日常風景を織り込んだ「私小説的な」作品です。(実際のロケは尾道の他、竹原市で行なわれていますが。)
 彼は、小さな港町 尾道でも、開発という名の破壊が始まり、それが悲しくて恐ろしくて、なんとか街の美しさを映像に残しておきたかったことが撮影の動機の一つであると語っています。

 日本の長い歴史には、エポックメイキングな分岐点がいくつかあるわけですが、風景や景観が大きく変わるエポックは、政治体制うんぬんとは実はあまり関係がなく、(戦乱や天災を別にすれば)産業構造が大きく変化する時だったと考えていいと思います。
 
 最も劇的だったのは昭和30年代の高度成長期であり、農山村には工場が建ち、汽車が走り、漁村では海岸が埋め立てられ、コンビナート群が林立しました。都市にはビルディングが建ち、道路が縦横無尽に延伸され拡張され、それまでの日本の風景は各地で一変することになります。これが第一期です。

 しかし、それでもまだ高度成長期の開発は、「遅れた」地域(尾道のような)を各地に残していました。開発が全国に徹底的に浸透するのは、列島改造、オイルショック、そしてそこからの回復期、すなわち昭和40年代後半から50年代前半にかけてでした。これが第二期です。現在の日本のまちやむらの景観は、農村では減反政策も始まるこの時期に、ほぼ原型が完成します。

 第一期から遅れをとった尾道は、第二期に命運をかけて開発を進めることになります。山陽新幹線が走りました。市街地は自動車社会に対応できるよう再開発されました。大林監督はこれに危機感を抱いたわけです。

 紀北町のアマンダさんの作品と大林映画の優劣を論じることはできませんし、そもそも比較など無意味ですが、はんわしが共通項を感じたのは、紀北町も高速道路の開通により、尾道より更に遅れて「第三期」がやってくる可能性が高いということです。

 もちろん、昭和50年代とはあまりにも社会状況が変わっています。
 しかし、第三期の波がどれほど強いものか、あるいは全く別のエネルギーを持ったものなのか、アマンダさんの映像を見て、さらに「時をかける少女」を見直して、そのことに思いを馳せずにはおられませんでした。

2010年1月30日土曜日

トヨタリコール問題の本質は?



 特に東海地方では超特大ニュースとなっている、トヨタ自動車のアメリカでのリコール問題ですが、今回リコールの対象となる車種は、ちょうどトヨタが現地での生産を本格化させた時期に生産されたものが多いようです。このことが、部品をアメリカのメーカーから現地調達した影響の表れではないか、すなわち、品質が非常に高く、トヨタの目も行き届く国内の下請けメーカーではなく、一定の品質管理で妥協せざるを得ない現地部品を使ったことがトラブルの遠因であるとの見方が、いくつかのWEB記事に散見されます。(例えばYOMIURI ONLINEの記事

 そして、この記事も指摘するように、コスト削減のため部品の共通化が急速に進んでいる自動車業界において、このリコール問題は非常に大きな懸念材料となっています。

 ここではんわしが思い起こしたのは、数年前にシンドラーエレベーターで連発した誤作動問題です。死者も出るという不幸な事態を招いたこの問題については、刑事責任に関していまだにシンドラー社と被害者側の紛争が続いているようです。
 事故発生時にはんわしが聞いた話は、これはエレベーターをオペレーションする組み込みソフトウエアの質が、外国メーカーと日本メーカーでは全く違っていること(つまり、日本のソフトウエアの質がずっと高い)ことが遠因ではないかということでした。

 しかし、経済産業省が企業などを対象に行った調査(2009年版 組込みソフトウエア産業実態調査報告書)によると、メーカーの8%が組み込みソフト作成を海外に委託しています。国内の組み込みソフトの技術者は圧倒的に不足している現状といわれていることから、海外への委託比率は今後もますます増加していくのではないかと考えられます。
 
 部品というハードも、組み込みソフトも海外発注が増える状況。
 これは日本の製造業企業が生き残るためにやむを得ないことと思いますが、トヨタのリコール問題のような、まさに死命を決するような重大事態に至る可能性もあることを、あらためて再認識させられた気がします。

2010年1月29日金曜日

「紀伊の松島」でウチワエビを食べた



 前々から、いつか書こうと思っていたのですが、紀北町の古里(ふるさと)温泉街のことをなかなか書く機会がありませんでした。

  古里地区は紀北町で最大の民宿街で、かつては海水浴客で賑わい、20年程前からは町営の温泉施設「きいながしま古里温泉」ができたことで、ひなびた温泉街としての地位を確立しました。
 今は、世界遺産にも指定された熊野古道伊勢路の散策客の宿としても存在感を高めています。

 昨日の長期インターン事例報告・研究会は尾鷲市で行われたのですが、終了後は古里に場所を移し、懇親会が行われました。
 その会場となったのが
 四季活魚の宿 紀伊の松島 です。


 紀伊の松島の若大将 大西さんは、イタリアンレストランでの修行を経て、1年半ほど前に紀北町にUターンして、家業の民宿を受け継ぎました。

 古里地域の民宿はいずれも料理自慢なのですが、中でも紀伊の松島は、しっかりとした日本的伝統料理でありながらイタリアンの感覚も感じられる「味覚の宿」としての独自のポジションを獲得しているように見受けられます。

 東紀州観光まちづくり公社によるインターンシップ事業にも意欲的に取り組んでいただき、インターンの学生を4ヶ月間受け入れていただきました。
 昨日は、そのインターン生も懇親会に顔を出してくれたので、直接色々なお話を聞くことができました。

 インターンのミッションの一つが、紀北町特産の伊勢えびを使った「伊勢えびしゃぶしゃぶ」を宿の名物とするためのPRだったそうで、ホームページには伊勢えびしゃぶしゃぶの写真がドドーンと載っています。
 




 予算の関係で残念ながらそれは食べられなかったのですが、紀北町紀伊長島の港で上がった新鮮な魚や渡利がき、特産品のマンボウを使った刺身、寿司、煮物など、20種類以上のメニューが食膳に登りました。
 おそらく、これほど多くの魚介類を一度に食べる機会は普通に人にはそうないと思います。(写真はウチワエビです。伊勢えび以上においしく、しかも希少価値なのは尾鷲市長のブログ「三日に一魚」に書かれている通り。はんわしはこの日、生まれて初めて食べました。)


  ただ、民宿なので、トイレや洗面所、お風呂は共用です。
 部屋も施設も清潔でしたが、何しろ隣室との仕切りは壁一枚、パーテーション一枚なので、音に敏感な方は少々厳しいかもしれません。隣室が大きないびきをかく人だったときも不幸でしょう。
 しかし、温泉、料理、歩いてすぐに広がる熊野灘の景色は素晴らしく、宿の家庭的なもてなしは本当に落ち着きます。田舎の宿にありがちな、なれなれしい接客でなく、適度に洗練されています。
 もし東紀州方面でお宿をお探しの方には、ぜひ四季活魚の宿 紀伊の松島をお勧めします。

 ■四季活魚の宿 紀伊の松島 http://ki.afz.jp/yado/index.html


 

長期実践型インターン事例報告・研究会



 東紀州観光まちづくり公社では、三重県とタイアップして、東紀州地域(三重県南部の尾鷲市、熊野市、紀北町、御浜町及び紀宝町の2市3町からなる地域)で、大学生を対象にした長期インターンシップ事業に取り組んでいます。

 長期インターンシップとは、よくある、数日間せいぜい2週間程度の職場体験型インターンではなく、自分磨きやスキルアップを求める学生が、やる気のある若手経営者にいわば「弟子入り」するようなイメージで、最低1ヶ月、長い場合は半年以上にわたってインターンシップを行うものです。

 インターンの内容も、経営者の片腕となって、新規事業の立ち上げや新製品の開発などの具体的なプロジェクトに主体的に参加するものです。その意味では「長期実践型」というネーミングがぴったりの内容です。(その一例として、写真は、紀宝町の石本果樹園がインターン生を活用して事業化した「みかん頒布会」の1月便です。)

 今年度、つまり平成21年度は、東紀州に6名の学生がインターンにやってきました。
 その活動事例報告と、インターンによって生まれた成果や問題点などを、実際に学生を受け入れた企業の経営者から発表してもらい、今後の東紀州での展開のため、関係者が情報共有と意見交換を行う会議があったので参加してきました。

 結論から言えば、非常に有意義な会議でした。大変勉強になったし、貴重な多くの意見が聞ける機会でした。
 ただし、論点は多岐にわたります。東紀州の長期インターンシップ事業は、ある種、行政主導で始まった経緯があることや、インターンを実施するエリアを東紀州の2市3町内に限定していることなど、全国の一般的な事例に比べて特徴となる点があるため、それを踏まえた議論も必要になります。

 簡単に会議の概要を書くと、経営者の評価としては
・今まで忙しくて取り組めなかった新規事業のプランやアイデアを、インターン生を使って実現することができた
・やる気のあるインターン生がいることによって、周りの従業員も感化され、社内の雰囲気が変わった
 などの肯定的な評価がほとんどでした。

 一方で、
・インターンの期間が1ヶ月では短すぎて、仕事を覚えた頃に終了してしまう
・経営者は多忙なため十分にアドバイスすることができなかった
 などの反省点もありました。

 しかし、会議の参加者の間でほぼコンセンサスが得られたのは、東紀州長期インターンシップを契機に、インターン生同士のネットワークや、経営者同士のネットワークが新たにこの地域に生まれた、ということです。
 つまり、経営者とインターン生という一対一の関係にとどまらず、東紀州の他の経営者や他のインターン生の間の複数対複数のネットワークに広がっているということです。
 今まで面識のなかった経営者を、インターン生を仲介して別の経営者が知る。熱い経営者同士はすぐに共鳴して、アイデアを語り合い、それが新たな商品作りや新しいビジネスにつながる、という経営面でのメリットも現実に生まれています。
 また、インターン生は多くの場合、他の従業員だけでなく、顧客や地域の人々とも親交を深めています。このため、ネットワークは乗数的に拡大していくことになります。
 この日の会議に同席していたチャレンジプロデューサーの方々からも、東紀州でのインターンシップの特徴は、この「ネットワークの強靱さにある」という意見が多く聞かれました。

 問題は、行政のスタンスです。インターン事業は、もちろん、経営者が費用を負担してはいますが、少なくない部分に税金も費用として使われています。そのため、インターンを行ったことでどのような「成果」が生まれたかの説明責任が行政には発生しますが、多くの場合、その成果は「何名が就職したか」「何名が定住したか」のような視点に片寄りがちです。

 この点については、同じく有識者の方から、インターン事業の成果は「交流人口の増加」の視点で測定すべきと言う、非常に示唆に富むコメントをいただきました。これもはんわしには大きな発見でした。

 以前もこのブログで書いたように、はんわしの願いは「東紀州を若者チャレンジの聖地」にすることです。幸か不幸か、就職難の現在、インターンシップには追い風が吹いています。これをどのように聖地化に活用していくか。そのヒントが少し得られた一日でした。

2010年1月27日水曜日

いよいよ取り壊し



 この家に引っ越してきたのは、はんわしが中3の時でした。
 信じられないことですが、もう30年以上も昔になります。

 家庭の事情で、母、姉、自分の3人で、今まで住んでいた家のすぐ近くに転居することになりました。
 戦前から建っていた家なので、初めて中に入ったときは古ぼけてすすけた感じでしたが、下町は隣近所みな似たような古い町家が密集して立っていましたから、別段それが嫌だとも思いませんでした。
 それよりも、生活環境が変わることに漠然とした不安を感じていました。
 もっとも、今の自分の年齢より多分若かったであろう母親は、今までのゴタゴタから開放されて新しい生活が始まる、というような期待感があったのか、妙に明るい表情だったのを覚えています。


 夜8時ごろ、まだ荷物を持ち込む前の部屋に上がりこんでみました。
 電気をつけると、家具も何もないガランとした空間があって、たまたま持って来ていたラジカセをつけ、畳の上に大の字に寝転がって聞きました。
 その時、ビートルズのLET IT BEがかかっていました。
 薄暗い部屋とすごく雰囲気が合っていて、自分もこれからここで生きていくのだ、というような気持ちになったことを(不思議なことに、30年前なのに)昨日のことのようにはっきり記憶しています。

 その家を、いよいよ取り壊すことになりました。
 とは言え、リフォームなので全壊ではないのですが、面影は相当に失われることと思います。
 今日、家具が運び出され、30年分のガラクタが処分されました。

 夜、電気をつけると、ガランとした部屋。 
 ここでのささやかな生活が思い起こされます。
 年のせいか、しみじみ眺めているうちに涙腺がゆるくなってしまいました。

 お蔭様で家族は皆、それぞれ元気です。
 新しい再スタートが、大きな困難も、悲しみもない、平穏な生活の中で切れることは本当にありがたいことだとしみじみ思います。



 

2010年1月26日火曜日

伊予柑で「いい予感」?



 KitKatが受験シーズンの定番商品になったのはいつ頃からだったでしょうか?

 きっと勝つ(正確には「きっと勝っと」みたいな訳のわからない訛りになりますが)との語呂合わせで、受験生の単なるおやつから縁起物に出世した有名な例です。
 これから入試が本格化すると、コンビニやスーパーの特設売り場で頻繁に目にすることになるでしょう。

 よく似た話ですが、ミカンの伊予柑(いよかん)も「いい予感」に語呂が似ていると言うことで、産地の愛媛県を中心に、受験生に配布したりとプロモーションを行っているそうです。
 この話は、今朝NHKラジオで聞いたのですが、実際に 伊予柑、いい予感 でネット検索するとけっこうヒットします。

 この「語呂合わせ」というのは案外バカになりません。
 KitKatの成功はマーケティングでは有名な話で、激戦のチョコレート菓子分野に後発参入し、苦戦していたKitKatが、社員が誰かの会話を小耳に挟んだことがきっかけで面白そうだと気付き、語呂合わせのプロモーションを開始したとのことです。
 これが需要の創造につながり、「受験生と、その親」という今までになかった全く新しい顧客層を開拓したわけです。

 ほんのささいなアイデアです。聞き流していたら、それでおしまいになったはずです。しかし、KitKatの定番商品化は絶対に実現していなかったでしょう。

 あらゆることをしっかり見、聞き、アンテナの感度を高めて情報をキャッチし、新しいビジネスチャンスのヒントを考える。
 言い古されたことですが、こういった瞬発力を高める努力はし続けたいものです。

2010年1月25日月曜日

公設試験研究所のたそがれ



 考えてみれば不思議なのですが、県に農業、林業、水産業、それに工業に関する研究所はあるのに、商業やサービス業を研究する機関がないのはなぜなのでしょうか?

 もともと農林水産業や、地場産業と呼ばれた工業、三重県なら例えば窯業(万古焼や伊賀焼)とか繊維業など、については「試験場」と呼ばれる県の施設がありました。100年近くも昔、明治時代からのことです。
 その当時、ほとんどの場合、農家や職人は家業や徒弟的に育成された労働力であり、整理され体系化された職業教育は受けていませんでした。そこで、各県は西洋流の近代教育を受けた研究者や技術者を招いて試験場を作り、こぞって農業者や工場技術者の支援を行いました。

 これはおそらく、官と民、両方にものすごく大きな効果をもたらしたと思います。
 農学や林学、材料工学などの新しい科学技術や生産方法は、スポンジが水を吸収するように、意欲のある農業者や技術者に浸透していったことでしょう。試験場がバックアップして新しい品種や製品を作り、栽培方法や製造方法を編み出せば、それによって地場産業は活性化し、地元に経済的な潤いをもたらすことにもつながりました。

 この蜜月関係は、明治、大正、昭和と時代を経て、高度成長期までは続いたこととおもいます。特に戦後、輸出で経済を発展させるほかなかった日本にとって、地場産品は重要な輸出品目であり、地域の経済と雇用を支えていました。
 しかし、昭和40年代後半の石油ショック頃になると農林水産業や地場産業は斜陽化が始まります。繊維製品や陶磁器などは円高で採算が取れなくなり、輸出の花形は電化製品や自動車に変わっていきます。中小企業の多くは大企業の下請けとして生き残り、地場産業は業態転換していきます。

 しかし、試験場は生き残りました。
 業績的にはピークを過ぎたとは言え、そしてその多くは中小企業だったとは言え、地場産業の経営者はその土地の名士で、県政への大きな影響力がありました。今は時運なく低迷していても、新しい商品や技術を開発すれば、いずれ売れるようになって生産も盛り返すに違いない。だから試験場にも予算を付け、研究者を維持しなければいけない、というコンセンサスがありました。もちろん、試験場自身の研究能力が高く、地場産業界からの信頼が厚かったことも大きな理由でしょう。

 しかし、地場産業はその後も低迷を続け、今や後継者もいない深刻な状態です。持続性が失われた事業活動はもはや産業とは呼び得ませんが、それでも歯を食いしばっていがんばっている少数の経営者を支援するために試験場は存続し続けました。

 美しい物語です。
 けれども、税金を負担している県民の大多数にはもはや関係のない話(より直接的に言えば、何のメリットもない話)になっています。
 今や農家や中小企業の技術者の多くは高等教育を受けており、試験場の優位性は失われています。インターネットで海外の情報も誰もが即座に入手できます。
 試験場は産業近代化に大きな足跡を残しましたが、県が運営することの歴史的な合理性が問い直される時が近づいています。

 事業仕分けでは、いったん廃止されたスパコンなど研究予算に莫大な予算が復活しました。国が行う研究開発なら、いつかは、何かで、国民が恩恵を受けることもあるのかもしれません。そして、その莫大な国の研究予算の地方での受け皿の一つが、かつての県の試験場・・・いつの間にか今では「研究所」に名前を変えている・・・です。

 国立病院は必要ですが、基本的に病人以外には直接の関係がありません。つまり受益関係がはっきりしています。なので、税金で運営しなくても、独立採算での運営が可能かもしれないし、その方が望ましいと言えます。

 研究所(試験場)も同じです。県民全体に恩恵を与える研究開発というものが考えにくい以上、直接の受益関係は農家や特定分野の中小企業以外にはあり得ないのですから、独立採算にすることをそろそろ検討してもいいのではないでしょうか。
 それによってその分野が産業として強くなることになれば、そのほうが研究所の本来の目的にかなっているし、潜在的には非常に高い研究能力を生かせると思うのですが。

2010年1月24日日曜日

ロングテール



 以前チャレンジしたのですが途中で挫折してしまった、クリス・アンダーソンの「ロングテール」をやっと読み終えました。

 小売業での業界常識に「80:20の法則」というものがあります。全体でアイテムが100あるとすると、売り上げの80%を占めるのは、100のうち上位の20%のアイテムであるという経験則です。
 商店にとっては売れない在庫を抱えるのはコストアップになってしまいますから、出来る限り売れ筋商品を多く揃えることが有利になります。

 この法則を有名にしたのはコンビ二の戦略です。
 コンビニは限られた店舗スペースに、とにかくたくさんのアイテムを置かなくてはならないので、POSなどのデータを活用して売れ筋商品に品揃えを集中し、死に筋商品はできる限り早く排除することが収益を上げるポイントになります。

 しかしロングテールの考え方によると、死に筋と思われていたアイテムでも需要が全くゼロになるわけではない。例えば音楽ダウンロードサービスを例に取ると、たくさんのダウンロードがあるのは人気歌手のヒット曲など上位の何十曲かに集中しています。
(イメージとしてこの図のようになります。ゴジラのしっぽ(テール)のように見えるのでロングテールと呼ばれるようになりました。)

 ところが、ヒット曲ではないマイナーな歌手の曲、少し古い曲、懐メロ、マニアックな曲などには、たくさんのダウンロードはないにしても、コアなファンは少数ながらいて、数十から数件のダウンロードは常にあります。 
 世界中すべてで、歌謡曲とか流行歌とかポップスとか、曲というものが何億あるのかはわかりませんが、上位の何十曲かに人気が集中し何百万件ものダウンロードがあるとしても、その残りの数千万曲にも数人ずつの人気があるとすると、上位と下位のボリューム(ダウンロード総数)はほぼ同じくらいになることになります。

 現実のCDショップで、もちろん何億枚ものCDを在庫して店頭に置くことはできません。これを可能にしたのがICTが可能にしたネットショップであり、在庫をコンピュータで管理することにより、死に筋として排除されていた無数のロングテールアイテムが、売れ筋商品と対等な、いや、それ以上に有望な市場に躍り出ることになります。

 この本は、ロングテール理論を始めて実証し、ビジネスにおけるICTの革命的な影響を指摘したものとして注目されています。
 しかし著者が本当に伝えたいことは、少数の商品を「売れ筋」にするのは、リアル店舗の物理的な制約のほかに、消費者全員が嗜好や流行を共有するという20世紀的な文明が、ロングテールによって個人やごく少人数の愛好家グループのみで共有されるニッチな価値観に大きくトレンドが変わっているということではないかと感じました。
 つまりロングテールはICTだけのことではなく、小売業だけのことでもありません。
 あらゆる生産活動、消費活動、行政活動、社会での諸活動に幅広く浸透してきている新しい価値観そのものだという理解が正しいと思います。21世紀のイノベーションを考える上で、必ず押さえておくべき視点ではないでしょうか。

2010年1月23日土曜日

皇學館大学ビジネスプランコンテスト



 今日は伊勢市にある皇學館大学で、学生を対象としたビジネスプランコンテスト(皇-1グランプリ)の公開プレゼン大会が開催されたので行ってきました。

 ビジネスプランを発表したのは、皇學館大学の社会福祉学部や文学部の学生と、三重県立松阪商業高校の生徒による計6チームで、いずれも第1次審査に勝ち残ったメンバーです。

発表順にチーム名とテーマを。
1.空き店舗活用サークル(松阪商業高校)
 「飛び出せ! 松阪どんぶりプロジェクト」
2.福祉(皇學館大社会福祉学部)
 「託児所・デイサービス併合施設事業計画」
3.こもれび(皇學館大社会福祉学部)
 「透析生活サポート」
4.ちーむ ガースー(皇學館大社会福祉学部)
 「N・C・S・S」
5.チーム漢(おとこ)(皇學館大社会福祉学部)
 「セカンドライフインターンシップ」
6.谷口塾(皇學館大社会文学部)
 「地域・大学・学生 放課後塾」

 発表内容は、あくまで教育の一環という趣旨だったためか、売り上げ予測や客需要などを厳密に行った事業計画というよりも、アイデア出しといった段階だと感じました。

 しかし、松商の松阪どんぶりなどは、すでに同校が松阪市内の商店街で生徒によるアンテナショップ「あきない屋」をやっている実績があることなどから一定の説得力は感じましたし、福祉や教育に関するプランも、そもそもの発想のヒントが、人工透析を受けている家族の声からや、仕事人間で気がつくと地域に知り合いが少ないと嘆いた父親の声から得られたものなど、若者ゆえの着眼点と柔軟性を感じました。

 残念ながら一般参加の聴衆は少なかったですが、マスコミ関係者が多数取材に来ていたので、プレゼンの結果、どのチームが栄冠に輝いたかは明日の新聞にきっと掲載されることと思います。

 以前このブログにも書きましたが、現在の経済状況を立て直す上で、若者による起業と新ビジネス創造は急務です。ぜひこのような方向性を産学官共同で進めていただきたいと思います。



 

2010年1月21日木曜日

サラリーマン養成から企業家教育へ



 中小企業の経営者は、年配者でも実年齢に比べてずっとお若く、精力的に活躍されている方が多いのですが、70歳くらいの方に、ご自分が経営者になるまでの経緯をうかがうと、最初から独立志向だったわけではなく、「仕方がないので起業した」「たまたま起業した」という割合が案外多いことに驚かされます。

 彼らがちょうど学校を卒業して社会に出るころ、日本はまだ戦後の混乱を引きずっており、特に三重県のような地方では、大企業もなく、大工場も少なく、サラリーマンになるよりはるかに高い割合で、親の仕事を手伝ったり、商店や町工場に丁稚奉公したりするパターンが多かったようです。

 当時のことですから零細な事業所では前近代的な徒弟制度が強く残っていました。
 先輩には絶対服従。新入りは誰より早く起きて掃除し、夜も最後に寝る、といった生活で、まとまった休みも正月と盆しかなく、厳しく仕事を仕込まれました。
 そのような徒弟奉公の期間が終わり、商人や職人として一人前になると晴れて、暖簾分け、独立が許されるという具合だったようです。

 今の日本社会では、学校を卒業した後、大企業や官庁に就職し、多くの場合終身雇用でそのまま定年まで勤め上げることが一種のパターンになっていますが、高度成長期、すなわち昭和40年ごろまでは、中途での独立を前提にした小規模事業者への就職が決して少なくはなかったのです。

 昨今、世界的不況の影響で高校性、大学生とも就職内定率が昨年に比べ急減しています。
 冷静に考えれば、現状は「不景気」というよりも経済や産業構造のパラダイム変革期なので、デフレ、需要停滞がこのまま恒常化する可能性も十分にあります。
 そのような中、もし仮に一時的に景況が回復したとしても、かつてのように新規学卒者の9割以上が企業に就職できるような雇用環境が続くのかは疑問に思わざるを得ません。

 このような時こそ、学校も社会も起業家教育をするべきなのではないでしょうか。
 若い人には酷な言い方かもしれませんが、ひな鳥のように口を開けていれば就職先があてがわれるという世の中では、今の日本、どう考えてもなくなっています。

 スモールビジネスとはいえ経営者ですから、経営に関するもろもろの知識のほかに、決断力や行動力といった全人格的な能力が求められます。気楽なサラリーマンや公務員とは別の人種への脱皮が求められます。しかし、たくさんの経営者の企業家精神は、日本社会にイノベーションをもたらし、経済的な進歩をもたらしました。
 学生への教育もサラリーマンの養成でなく、企業家の養成に方向転換しなくてはいけません。そして、起業、創業を社会全体でどんどん支援すべきです。
 そのうえで、学校教育のシステム、学習内容、学習方法なども刷新すべきではないでしょうか。

2010年1月20日水曜日

とばーがーとテキサスバーガー

 以前もこのブログで鳥羽市役所が認定しているご当地バーガー「とばーがー」について書いたのですが、いまだに検索エンジンからお越しになる方が少なくないヒットキーワードになっています。

 先日、近鉄鳥羽駅前の鳥羽一番街にある、レストラン グランブルーが、また新しいとばーがーを発売したので行って見ました。


  「牡蠣燻」(かきくん)バーガーという名前で、鳥羽特産の牡蠣が燻製になったものがタルタルソースと共に挟まれています。

 ややキワモノ的な感じは否めませんが、意外なことにこれがおいしい。

値段が確か600円くらいで、注文してからできるまでに10分ほどかかりますが、このグランブルーはメニューのパンがすべて自家製らしく、この牡蠣燻バーガーもパンが噛みごたえのあるパンで、けっこうおなかがふくれました。

 ■とばーがー<公式ホームページ> 
   http://www.city.toba.mie.jp/kanko/tobarger/newrelease-20090130.htm

 話は変わりますが、日本マクドナルドも今年1月17日の売り上げが全店で28億円となり、1日あたりのとしては過去最高の売り上げになったことが報じられました。
 サンケイビズによると、これは 「ビッグアメリカ」と銘打ち、15日から発売した大型バーガー「テキサスバーガー」の販売が、一部店舗で売り切れになるほどの大人気になったためだそうです。

 本来ならメタボと戦わなくてはならないはんわしですが、それはそれ、乗り遅れてはいけないとテキサスバーガーにも挑戦してみました。

 通常のハンバーガの2.5倍の肉を使っているとのことですが、これも意外とあっさり食べられました。それほどしつこくない感じでした。

 アメリカは行ったことないので知らないのですが、海外でハンバーガー食べると脂でギットギトで閉口することがあったのですが、これは日本ナイズされているような気がしました。


 誤解のないように言っておきますが、とばーがーとテキサスバーガーを食べたのは一緒の日ではありません。別の日ですから。お間違いなく。
 しかし、テキサスのほうは1個640キロカロリーあるとのことですから、食べすぎにはくれぐれもご注意を。

2010年1月19日火曜日

三重県コミュニティビジネス・アドバイザー会議



 最近、本当に雑用が多くて、前々から参加しようと思っていた会議をドタキャンせざるを得ないことがしばしばです。
 今日、津市で開催された「コミュニティビジネス・アドバイザー会議」もそのパターンでした。

 三重県では平成18年度から、地域課題をビジネスの手法で解決する事業活動であるコミュニティビジネスへの支援を行ってきましたが、その目玉の一つが、コミュニティビジネスの事業者をサポートする「中間支援組織」の育成支援でした。
 良き事業者を多く輩出するには、起業や事業継続の側面でさまざまな相談に乗り、アドバイスを行う支援機関が不可欠です。当時、まだ中間支援を担う人材は三重県では数少なく、多くのアドバイザーを育成し、間接的にコミュニティビジネスの活性化を図ろうという戦略でした。

 そして今日、その当時からアドバイザーとして活動していた方や、アドバイザー養成講座を受講されたOBなど約20名が集まり、東京のコミュニティビジネスサポートセンターの永沢映さんを講師にお招きし、情報共有などの会議が行われたのです。

 はんわしは、会議終了後の交流会のみの参加でしたが、県下全域で活躍されているアドバイザーの面々が揃っているのは壮観でした。永沢さんのお話は非常に有意義なものだったらしく、直接聞くことができなかったことが残念です。

 ■三重県コミュニティビジネス支援サイト
   http://www.pref.mie.jp/SHINSAN/HP/cb/outline/index.htm

 政権交代によりNPOや市民セクターの重要性が国の政策にも反映されるようになって来ました。これは大変よいことなのですが、永沢さんのお話では、数年前まで国のコミュニティビジネスに関する予算は8億円程度だったものが、21年度は700億円(!)にまで膨張しているとのこと。
 国の官僚の嗅覚は非常に鋭いものがあり、彼らもこの時代、コミュニティビジネスの可能性にもようやっと着目しだしたことを意味するのでしょうが、それにしてもこれは「バブル」です。

 相変わらす行政の支援は、創業時のスタートアップ補助金が中心ですが、これは一過性のものに過ぎません。もちろん、無いよりはマシかもしれませんが。
 コミュニティビジネスは地域のコンセンサスを得ながら、初期投資を少なく(言わば「小さく産んで」)、事業が軌道に乗ってきたときに、小額の運転資金や事業拡大資金を投資するというパターンが望ましいとされています。
 しかし、この一番大事な部分に行政の支援はなく、金融機関による融資も、スモールビジネスであり、リターンも少ないという特性のため、制度が不十分なのが現実です。
 このような部分をどう改善していくかは、アドバイザーなどの支援者と県も含めた行政機関などの関係者が検討していくべき課題だと思います。

2010年1月18日月曜日

初めて「三重美少女図鑑」を見た

 三重県でも美少女図鑑が刊行されていることは知っていましたが、津ではなかなか入手することができませんでした。
 しかし、今日、はじめて三重美少女図鑑の実物を見ることができました。
 リンクはこちら→http://www.bishoujo-zukan.jp/mie/
 
 噂には聞いていましたが、一般の読者(つまり素人)の方がつとめているというモデルのみなさん、本当に美しい方々ばかりでびっくりしてしまいました。
 ロケ地もどこか見たことがあるような、たぶん津市内とか、四日市市内とかの街角であったり、いかにもご当地という感じの鈴鹿サーキットであったりとかで郷土色満載です。

 昨今、地域資源を活用した産業の活性化とか、地域おこしが盛んです。
 ここでいう地域資源にはもちろん人材も含まれているわけですが、ヘアサロンやブティックといったサービスを提供する側はもちろんのこと、装う側、つまり美少女図鑑の読者であり、モデルでもある消費者の存在も、地域の活性化には不可欠であることを再認識させてくれます。
 楽しみながら参加できる。そして、供給側にも消費者にもメリットがある。
 このようなビジネスモデルは、これからもどんどん広がっていくのではないでしょうか。


2010年1月17日日曜日

コミュニティビジネスと「貧困ビジネス」



 3日前から今日にかけて中日新聞朝刊に「貧困ビジネスの舞台裏」という記事が連載されていました。生活困窮者向けの宿泊所を運営していたFISなる団体が、5億円もの利益を隠したとして国税当局に告発された事件についてのルポルタージュです。

 この記事によると、FISは、ホームレスの支援活動で知り合った名が共同経営者となって2002年に設立した事業体です。世界的な不景気により派遣切りなど失業問題が深刻となってくるにつれて、FISによる「事業としての無料宿泊所」は急成長を始めます。
 FISのビジネスモデルは、中古物件の賃貸用建物を再利用し、入所を希望する生活困窮者に対しては生活保護の受給を支援し、宿泊所の運営は、この生活保護費を当てる、というものでした。
 入居費用、つまり入居者の生活保護費からFISが徴収する金額は月9万円。これが高いか安いかは見解が分かれるようで、行政側は値段の引き下げを依頼したりしてもいたようですが、FIS側は「冷暖房完備の個室を提供しており、相場と比べて不当に高いわけではない」と主張し、平行線だったようです。
 しかし入居者の手元には3万円しか残らないという、このような手法が「ビジネス的な成功」につながり、結果的にFIS幹部に多額の利益をもたらすことになったのは確かです。

 はんわしは、FISを擁護する気は全くありません。
 しかし、地域仮題を解決するビジネスであるコミュニティビジネスに21世紀の日本の可能性を見出している者の一人として、FIS問題を真摯に検討し、ここから教訓を得なければいけない気がします。

 格差社会が叫ばれた平成17~18年ごろ、路上生活者への生活支援は大きな社会問題となっていました。これを解決しようとしたFISの志が間違っていたとは思えません。
 問題の核心は、生活保護を原資にして巨額の利益を上げたということでしょう。もちろん、ビジネスである以上、利益を上げるのは当然で、むしろ望ましいことです。
 しかし日本では、社会的な課題、例えば福祉とか医療、教育などの分野では営利を求めるということが非常に忌み嫌われます。これは、株式会社が病院を経営できるようになるとか、学校を運営することができるように規制緩和が検討されたときにも、根強い反対意見があったことからもうかがえます。(ちなみに、医療法でも病院は非営利でないといけないという規定はないはずで、現実に株式会社立の病院も存在しているはずです。しかし、現在は行政の運用において、病院は営利を求めてはならないとされ、従って株式会社のような営利追求を前提とした経営組織には免許が与えられないという事態が続いています。)
 しかし、このように営利追求性を極端に排除していると、結局自立的な経済活動としてのコミュニティビジネスは成り立たなくなってしまいます。

 また、これは「貧困ビジネスの舞台裏」の記事からも感じましたが、「行政は宿泊所運営事業者をもっと監視すべきだ」のようなニュアンスは強く社会に蔓延しています。これも日本人の特性ではないでしょうか。つまり、「行政頼み」「お上頼り」ということです。
 行政が民間を「監視」するには、当然ながら法的な根拠が必要です。いちいち法律を作り、役人を雇って監視するのは、手間も費用も時間も膨大にかかります。このことがコミュニティビジネスの機動性や自主性を妨げることにつながらないでしょうか。

 このような、「営利追求への厳しい目」「行政頼み(民間不信)」は、コミュニティビジネスにとどまらず、これからの成長産業となるような新産業を日本で育てて行くうえでも大きな足かせになる気がします。
 うがった考え方をすると、このような日本的な心性があるので、価値観や利害が対立するような、いわば社会的な変革を内包したコミュニティビジネスモデルよりも、価値中立的な科学技術を応用した製品(燃料電池自動車などのような)こそが新産業につながるかのような声が、いまだに日本社会では一定の重きをなしているのかもしれません。

もちろん、これでは21世紀のイノベーション競争に勝てるはずがないのですが。

2010年1月16日土曜日

近大高専撤退の理由を冷静に考えよう



 熊野市にある近畿大学工業高等専門学校(近大高専)は、熊野市はもちろん紀伊半島南部で唯一の理科系の高等教育機関です。しかし、少子化が進む中、年々入学者は減少し、ついに累積債務が130億円となるに至り、このほど平成23年3月末で熊野市から撤退することが決定しました。
 近大高専撤退の噂は数年前から出ては消えしている状態であり、昨年、名張市にある皇學館大学がやはり入学者の減少で名張学舎から撤退することになった時点で、名張市への移転の噂が一気に浮上し、現実味を帯びて来ている状況でした。

 紀南新聞のウェブサイトによると、地元熊野市は奨学金制度の拡充など、近大高専の存続に向けた努力はしていたものの、
 市民からは「地域の経済、教育への影響は計り知れない。何とか引き止められなかったのか」と市の対応の遅さを批判する声も出ている。
 とのことです。(http://www.kinan-newspaper.co.jp/history/1001/17/02.html

 しかし冷静に考えて、このような批判は的外れです。市民の「甘え」と言っても良いでしょう。
 行政が、私立学校による(閉校という)経営判断を覆えせることなどあり得ないことですし、厳しい財政状況から、受益者が学生とその保護者に限定されるような支援制度を強化することも現実的ではありません。
 もしこのような考え方の市民が少なからず存在するのであれば、今後も少子化が進み、早晩、県立高校でも同じように閉校や合併などの問題が起こると予想される中で、解決に向けた方向性が見失われてしまうのではないかと、正直、心配になります。

 近大高専の撤退は、もちろん少子化が最大の問題でしょうが、熊野市、ひいては東紀州の置かれた地域性が遠因になっていることは間違いありません

 一つ目は、産業構造が変化し、熊野市や東紀州において高専卒のような人材が必要とされる製造業企業が先細って来ていることです。
 従来は、比較的田舎であっても、弱電の組み立てや自動車部品の金属加工などの小規模な製造業企業は成り立つことができました。人件費が安く、コスト競争に勝てるチャンスがあったからです。しかし、今やこのようなポジションの下請け型企業は中国との競争が激しくなり、今後とも東紀州に立地し続ける可能性はどんどん小さくなっています。
 つまり、せっかく工業系の人材を育てても、地元の雇用の受け皿がますます小さくなっていくことです。繰り返しますが、これは熊野市の努力でどうなるものではありません。

 二つ目は、高専は工業高校とは違い、教育だけでなく研究機能も有している高等教育機関であるのに、近大高専は地元の製造業企業との産学連携がほとんど進んでいなかったことです。
 これは、地元企業のイノベーションへのニーズを掘り起こせなかった高専側にも原因はありますし、高専の機能を活用できなかった地元企業側にも問題があります。もっと言えば、産学連携をコーディネートできなかった行政(この場合こそ、熊野市)にも少しは反省すべき点はあるのかもしれません。

 この2点を見据えなければ近大高専撤退問題の本質は理解できません。
 少子化と大学全入時代を迎え、地方の大学や高専は今後ますます運営が厳しくなってくることでしょう。地域の産業構造を政策的に転換させていくことと、新産業に合った人材育成、さらには産学連携を推進しなければ、今後も同じような問題は各地で続いていくことでしょう。

2010年1月15日金曜日

お笑い「モノづくり立国論」




 今日は経済産業省主催の中小企業セミナーがあり、奈良に出張していました。
 奈良は今年が「何ときれいな平城京」の遷都1300年記念ということで、会場にはかの有名なせんとくんが来ており、来場者に愛嬌を振りまいていました。

 奈良県は、三重県と同じような南北問題を抱えています。吉野以南の地域は道路インフラの整備が遅れており、林業や観光以外に主だった産業がありません。一方、北部は大阪・京都のベッドタウンであり、県外で就業する人口が約30%という全国一高い「流出率」となっています。
 しかし、森精機やシャープのような世界的メーカーが立地するほか、墨や履物、織物などの伝統産業も多くあり、新しいものと古いものが融合する、可能性の高い地域でもあると拝察します。

 今日のセミナーの内容では、奈良県内で農商工連携に取り組む若手経営者のパネルディスカッションが非常に参考になりました。
 江戸時代から続く麻織物の老舗メーカーの後継者が、小売業にも進出して自社商品のブランド化を進めている事例。
 奈良特産の柿を活用し、柿酢や柿ようかんなど定番商品のほか、洋菓子のような新商品の開発、さらには今まで廃棄物となっていた摘果柿を活用した柿渋の製品化に取り組んでいる事例。
 奈良の伝統野菜に着目し、農家レストランを併設して高付加価値な農業生産に取り組んでいる社会企業家。
 などなど。
 「モノからモノガタリへ」、「1次×2次×3次=6次産業化の実践」など、新しい産業の胎動が奈良県内で力強く始まっていることが良く理解できました。このような有意義な話が聞けると、県外へ遠出してもセミナーに参加してよかったと再認識します。

 しかし、このセミナーも、別のセッションで行われた講演会はちょっとお笑いでした。
 経済産業省が主催するセミナーでは、なぜか全国どこでも、必ず金魚のフンのようにくっついてセミナーなどを併催する、ある御用新聞社のお偉いさんの講演でした。
 日本は将来にわたって、ものづくり(製造業)で生きていくしかない!
 というのは、資源が少ない日本では当たっている部分もあるし、何より御用マスコミの職業病のような主張なので毒にも薬にもならないのですが、この種の「偉い人」が絶対に言い出すいくつかの主張には、正直、ウンザリします。

 いわく、「アメリカの金融破綻は、肥大した金融業によるサブプライムローンのようなマネーゲームの結果である。」
 いわく、「アメリカは凋落していくが、世界の基軸通貨がドルであることは変わらない。それは日本が買い支えているからである。」
 いわく、「これからはアメリカと同時に中国の市場も狙うべきである。しかし、日本の企業が買収されないように円高、株高は一定維持しなくてはいけない。」

 ああ、そうですか。

 アメリカの金融バブルは、金利が安い日本で資金を調達し、ドルを買ってアメリカで投資する、いわゆる円キャリートレードがもたらした面も大きいというのはすでに定説です。その結果、円安も進んで、(借金してまで)車やテレビや家を買ってくれるアメリカ人相手に、日本のメーカーは大儲けしたのではないですか!

 まあ、これ以上はコメントしないのですが、御用マスコミなど所詮この程度のレベルなのでしょう。
 しかし、ネット社会の普及によって健全なジャーナリズムまでも淘汰の危機に瀕している中で、御用新聞は「政府のインサイダー」としてのポジションが、ある意味で存在意義そのものとなっていることは、皮肉な現象ではあります。
 このお偉いさんに続いて、特殊金属加工メーカーの若手社長が自社のイノベーションについて講演したのですが、この人のほうがよほど謙虚な姿勢であり、グローバル化や知財展開について本質を突いた話をしていたのが対照的でした。



 

2010年1月14日木曜日

日本には希望だけがないってマジか?



 希望の国のエクソダスを、はんわしは恥ずかしながら読んだことがないので、小説の中に出てくるという「この国には何でもある。だが希望だけがない。」というあまりにも有名な言葉が、どういう文脈の中で登場するのかは知りません。
 しかし、これは現代日本の閉塞状況を言い当てている至言として、広く巷間に流布しています。

 けれど、よく考えると不思議です。
 日本は2千年近くの歴史を有しており、その過程にはいろいろな時代の移り変わりがありました。
 外交や貿易が盛んになる時期(飛鳥時代、室町時代など)があれば、鎖国の時期(平安時代後期、江戸時代など)もあります。
 戦争の時代、平和な時代という分類も可能ですし、男女の性差の強い時代と弱い時代、生産力の増進期と停滞期など、さまざまな世相があったわけです。

 その中で、第2次世界大戦後、朝鮮戦争で漁夫の利を得た好景気から始まった日本の経済成長は、アメリカ流の民主主義と相まって、ある種、特異な時代を形作っていたと思います。
 日本が歴史上初めて、身分や家柄にほとんど関係なく、個人の資質で、上の学校で勉強すれば、あるいはコツコツと仕事を頑張れば成長し、成功する時代でした。
 そのような時代は、今日より輝かしい明日が確信できたので希望も持てたわけです。

 しかし、国中が内戦に明け暮れていた戦国時代、果たして人々は希望を持っていたのでしょうか。
 疫病や天変地異が続き、権力者は政争に明け暮れていた平安時代、今日より明日が素晴らしいとはほとんど人は思わなかったのではないでしょうか。

 もちろん、今よりずっと人間らしい暮らしだったでしょうから、その意味で一族郎党や地縁のコミュニティでは喜怒哀楽すべてを共有した生活だったとは思いますが、その豊かさは「希望」とは質が違うものです。

 希望がある社会がいい社会。
 人は本来、希望を持つもの。

 誤解を恐れずに言えば、この価値観は2010年の今の思潮を表しているに過ぎないのかもしれません。



 

2010年1月13日水曜日

全国企業倒産状況から予測してみる



 東京商工リサーチが公表した全国企業倒産状況によると、2009年の負債総額1000万円以上の倒産は15480件、負債総額は6兆9300億円だったということです。(リンクはこちらhttp://www.tsr-net.co.jp/

 件数は前年に比べ1.0%の減少となっており、その要因として中小企業向けの緊急保証制度などの金融支援や、公共工事の前倒し発注などの政策効果が挙げられるとのことです。
 半期ベースで見ると、1月~6月の上半期の倒産件数が前年に比べて8%もの増加だったのに比べ、7月~12月の下半期は10%の減となっており、倒産件数に着目する限りでは、景気の危機的な状況は脱しつつあるように思えます。

 しかし、製造業は今後ますます国際的な水平分業やモジュール化が進むでしょう。研究開発型の一部の企業を除いて、コストで勝負している大多数の大量生産型の製造業中小企業は、その地位を海外の企業や工場に取って代わられるように間違いなくなります。
 また、公共投資に支えられていた建設業も、「コンクリートから人へ」が進むと否応なく淘汰が始まるでしょう。

 同時に、少子高齢化により、学習塾とかスポーツジム、生活介助、運転代行などのサービスは重要性は高まります。消費者にとって生活の豊かさが実感できる産業、例えば美容院とかネールサロンとか、エステとか、書店、しゃれた服屋、喫茶店などの小売業やサービス業もニーズが高まってくるでしょう。また、行政の機能不全により地域課題の解決を目指すコミュニティビジネスも必然的に発生してきます。

 このような、第2次産業(製造業、建設業)から、第3次産業(商業、サービス業)への産業構造の転換は歴史の必然であり、ローカルな地域においてもこのトレンドは強く意識しなくてはいけません。

 しかし一方で、現に多くの従業員を抱えている製造業の工場が撤退することは地域にとって痛手です。撤退しないように、何か手伝いができないか、行政が製造業中小企業のご用聞きして真剣にニーズを探ることも必要になるでしょう。また、建設業の業態転換に向けた支援も重要です。場合によっては建設業者の企業合併による生き残りの模索もいるかもしれません。
 
 倒産の状況は一服感があるとはいえ、先行きは不透明です。大企業経営者やエコノミストの多くは日本の景気が「回復」することはなく、現状がそのまま「常態」となる、と考えています。
 2010年は、地域経済も大きな転換点を迎えるのではないでしょうか。

2010年1月12日火曜日

「デフレ克服論」に関するメモ



 デフレは「負のスパイラル」
 給料が減るので購買意欲も減り、消費が落ち込み、
 モノが売れなくなって生産額も販売額も減少し、
 それが企業業績の悪化につながって、
 ますます給料が下がり、失業の恐怖も目前に迫ってくる。

 なので、いま、デフレを「退治」し「克服」しようという議論が盛んになっています。
 
 例えば、超有名な勝間和代さんなんかが提唱する、国はお札をどんどん刷り、どんどん国債を発行して通貨供給量を増やし、人為的にインフレにしてしまえ、という意見が代表的なものです。
 確かに、国債をお金の発行元である日銀が買ってくれれば、お金を印刷する紙代やインク代くらいの費用で、市中にお金がじゃぶじゃぶ流れるようになり、名目上は(実質上ではなく)給料も増えるので、消費も増える。それをきっかけに生産も販売も増加する。お金よりモノで持っている方がトクになるので、借金してでも仕入れや設備投資をどんどん増やしたほうが良くなる。そういうシナリオです。

 しかし、これが狙いどおり行くかどうかは未知数です。
 デフレの冷え込みが、一般社会に漂っている「気分的」なもの・・・例えば閉塞感とか、先行きの不透明感とか・・・によって余計にひどくなっているとすれば、逆にインフレは社会全体が浮かれている「過熱」状態なので、いったんインフレが始まってしまうとそれをコントロールするのは至難の業になります。
 かつての石油ショック時の「狂乱物価」のように、戦後日本の経済対策は、多くが「インフレ対策」にエネルギーを費やしていました。
 つまり、いかに過熱を冷却し(かといって冷却しすぎてデフレにならないように気をつけつつ)、経済の温度をコントロールするかに腐心していたわけです。

 それに、国の借金を日銀が肩代わりして、代わりにお金を刷るのは、結局、財政赤字をいっそう促進させてしまいます。
 借金で破産しそうな人(この場合は日本国)にカネを貸すことは、貸す側のリスクも大きいので、国債の金利は高くなって、金利全体に高金利が波及します。すると、モノの値段も上昇します。

 国が財政破綻寸前に追い込まれると、国が発行しているお金は紙切れと化す危険性が強まり、信頼度が激減するので、お金の価値は下がって、ますますモノの値段が上がる。
 テッシュ一箱が100円だったのが、あっという間に1000000円になったりする。

 ジンバブエとか、国家が破産して債務履行不能になった後、国民に襲いかかるのは1時間ごとに物価が上がっていくような、異常なハイパーインフレです。
 貯金の利息を生活の足しにしている高齢者などは生活することができなくなります。利息で食っている人が常に金持ちとは限りません。こうなったら別の意味で「負のスパイラル」です。

 そう考えると、デフレもインフレも、どっちも良くないということにならないでしょうか。

 日銀が勝間説に消極的なのもそのせいと言われていますし、何より、現状は基本的に「大量生産、大量消費」の時代が終わりつつあるということの証左であって、デフレ状態が「克服」され、景気が回復することなど、これからの日本で、そもそも考えられるのかと思ってしまいます。(もちろん程度の差はあるし、今後の揺り戻しもあるとは思いますが。)


2010年1月11日月曜日

寅年なので「虎尾山」に行ってみた

 はんわしはまったく知らないのですが、伊勢市岡本町にある虎尾山は、橋本紡さんなる作家の小説「半分の月がのぼる空」に登場する場所らしく、また、それを原作とした映画ももうじき公開されるそうで、もっぱらその方面で脚光を浴びているスポットになっているようです。

 はんわしは連休で身体がなまっていたせいもあって、散歩がてら自宅から30分ほどで歩いていける虎尾山に登ってみたのですが、それを再認識したのは、普段ならまるでひと気もない登山道で、若い男性にばったり出くわしたからです。
 その人は、笑顔でいきなり「聖地巡礼すかあ?」と話しかけてきたので少々びっくりし、いや、近所に住んでいるので散歩です、と答えたのですが、こんな若い人が来る場所なんだなあと思った次第です。


 元々、虎尾山は、伊勢市街を見下ろす小高い丘であり、昭和初期、戦時下で軍国主義が台頭してきたときに日露戦争の戦勝記念碑が頂上に建立され、当たり一帯が開発されたという経緯がある場所です。
 この辺は、「いにしえの伊勢」というブログに非常に詳しく書かれています
 → リンクはこちら http://inishienoise.blog.so-net.ne.jp/archive/c5376381-1

 しかし、皇国史観の聖地は、敗戦によって一転、忘れ去られました。
 はんわしも仕事でこの付近には何度も来たことがありましたが、山の上に塔があることも、ましてやそこに行く道があることも最近までまったく知りませんでした。当時は完全に藪山になっていたからです。(廃墟と化した記念塔にはニャロメの落書きがされていたそうで、昭和40年代には「ニャロメの塔」として青少年の喫煙のたまり場になっていたそうです。)

 その後、小説が直接のきかっけなのか、それともせっかくの場所を活かそうとしたのか、虎尾山の環境を再整備し、市民が憩える場所にしようという動きが出てきました。NPO法人も作られ、有志の方々が登山道を発掘して再整備をしてくれました。これが数年前のことだと思います。

 ところが、再整備された後、虎尾山の塔付近の土地が不動産業者によって住宅開発されることになり、造成工事の間、塔付近は立ち入り禁止に。
 2年ほどの造成期間が終わり、今は山がモヒカン状にベンチカットされ、北側の斜面は閑静な住宅地に。そして木立の中にあった塔は下界から丸見えの状態になりました。
 現在は住宅団地に作られた公園を起点にして、塔まで行く小道が再々整備されています。(これもNPOが中心になって作ってくれたようです。本当に頭が下がります。)

 この場所は確かに見晴らしはいいのですが、特段、ここからすごいビルが見えるとか、伊勢神宮が見えるとかはないので、虎尾山が一般的な意味での観光スポットになるとは考えられないのですが、伊勢市民の方や、伊勢には何度も遊びに行ったのでもう飽きたという方は、是非一度行ってみてはいかがかと思います。
 塔はなかなかのものです。以前のうっそうとした中に屹立していたディープな廃墟の雰囲気は軽減され、「ごく普通の廃墟」レベルにまで親しみやすくなっています。

 そうそう。
 公園にある登山道の入り口に、
 「半分の月がのぼる空」映画公開記念 ロケ地巡りツアー@伊勢市
 というチラシが置かれていました。
 開催期間は2月13日(土)~14日(日)で、第1日目はまず皇學館大学に集合。昼間は映画のイベントやファンの交流会などがあり、夜はライトアップされた虎尾山に登山(夜景が素晴らしいことでしょう)。ホテル泊。
 第2日目は、河崎や商店街、おかげ横丁などを散策するという内容です。代金は22500円。
 詳しくはこちらを
 ■旅の発見 http://tabihatsu.jp/special/hantuki/

 以上、勝手にPRでした。
 みなさまもぜひ虎尾山に。

2010年1月10日日曜日

限られた予算を何に使うか?



 こどもSOSの家という制度が始まったのは数年前くらいからだったでしょうか。

 当時、子供を対象にした凶悪犯罪が全国で多発し、各地で登下校ボランティアとか、見守りボランティアなどの運動に取り組まれるようになり、万が一、緊急事態が起こった場合、こどもが逃げ込めるような避難所として一般家庭や店舗、事務所などをボランティアで提供する「SOSの家」が生まれたと記憶します。
 今でも津市内では、一般家庭や店舗などにSOSの家の小旗(写真)が掲げられているのをよく見かけます。非常に心強く思うと共に、このボランティアに参加している方には頭が下がる思いです。

 しかし、時々、軒先で長年風雨にさらされているためか、色が退色して文字も読めなくなり、それどころかボロボロになってしまって、まず幼い子供が認知することは不可能なほどに機能が喪失されたSOSの旗もよく見かけます。たいへん気になるところです。

 こういう事を書いてケチを付けると結局は自分のところに戻ってくるのですが、それにしてもSOSの旗くらい、せめて毎年更新できないものでしょうか。費用的にもたいしたことはないと思います。せいぜい15センチ角くらいの小さなものなのですから。

 ボロボロになっていても不測の事態を考えたら掲げないわけにはいかない。しかし、そのようにヘビーに使うから余計に痛みが進む。まさにジレンマです。旗を出している方には悪気はないことはよくわかります。
 しかし、県に(県警に? あるいは津市に?)それほどの予算もないとは到底思えないので、ぜひ22年度では予算化してもらい、旗を更新していただきたいものです。

実家の改装



 このブログで何度か書きましたが、はんわしの実家は鳥羽市の中心市街地にあります。市役所まで徒歩5分、郵便局まで3分、コンビニまで1分という環境ですが、多くの中心市街地がそうであるように少子高齢化が進み、クルマ社会にも対応できないため衰亡の一途をたどり、先月は、とうとう隣家(商売をやめ空き家になっていた)が取り壊されることになりました。
 昔の町並みは、当然ながら建築基準法など適用されておらず隣家同士が密着して建てられているので、ヘンな喩えですが、虫歯を一本抜くと健康な他の歯列まで影響するといわれるように、家も一軒壊すと近所にさまざまな影響が出てくるのは仕方がないことです。

 うちの実家の場合は、隣接していたところが突如、空き地になったので、めちゃくちゃに日当りが良くなりました。昼間でも常に電気をつけていたのが、電気代が激安に!
 しかし同時に、老朽化による痛みも随所で白日の下にさらされ、特に板張りの外壁は、そもそも密着して建っていたときは風雨はあまり考慮しなくて良かったと思いますので安普請で、どうにもこうにも手がつけられず、全面改修する必要が出てきました。

 この際なのでついでに耐震補強や、柱のゆがみなども直そうということになり、とうとう思った以上に大きな改築工事を行うことになりました。
 今、工務店と設計を相談している状況で、何と言っても費用が一番気になるのですが、作業的には何が大変って、建物を使いながらの工事になるので、工事スペース確保のために家の中の整理をして、家族の不要な荷物を片付けなくてはならないことです。

 何十年分もたまった荷物です。これが想像以上の仕事量になっています。
 自分の親の世代なので「もの持ち」が良く、人からもらったものを捨てるという思想が欠如しています。しょーもない電気毛布とかタオルケットとか食器やらが箱に入ったまま膨大にストックされています。
 あるはずもない「不意の来客用」の布団セットも押入れを占拠しているし、本も大量にあって、これら使用不能のガラクタを自分の手で整理整頓・処分しなくてはならないのかと思うと気が遠くなります。
 はんわしも学生のときにせっせと買った雑誌、レコード、カセットテープなどが死ぬほど出て来て、懐かしいやら、恥ずかしいやら。
 特に、古い写真関係になると懐かしくて整理の手がいちいち止まるので、非効率なことこの上ありません。

 というわけで、今週来週、鳥羽に帰りつつ、ぼちぼち作業をすることになりそうです。

 環境に負荷をかけないコンパクトシティは21世紀の日本が唯一生き残れる都市構造なのに違いありませんが、こういう状況になってみてはんわしが実感するのが、理屈はともかく、実現の難しさです。
 町内会のような自治組織も、住民が減ってしまえば機能しません。広域化しても向こう三軒両隣でないと意味はないので、少子高齢化とどう両立していけばいいのでしょうか。

 もう一つの再認識は、地域における建設業の存在感です。
 実家のようなちっぽけな家でも、先月からの点検や設計などで、工務店にとっては延べ数人の仕事にはなっています。公共事業に頼りすぎることはもはや財政的に不可能ですが、では田舎に建設業に代わって雇用を生み出せる仕事はどんなものがあるのか、ということを考えざるを得ませんでした。(鳥羽市の場合はまだ観光業があるので少々はマシかもしれませんが。)

 

2010年1月7日木曜日

東紀州に見る「地域振興」の進化

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 数日前から中日新聞に「お値打ち考 -デフレの向こうに-」という記事が連載されています。
 今日(1月7日)は商店街がテーマで、にぎわいを取り戻そうと模索を重ねる中部地方の商店街が取り上げられていました。その一つが、南三重地域活性化事業推進協議会(中日新聞の記事では東紀州観光まちづくり公社と連携して・・・とありますが、間違いです。)が名古屋市の藤が丘中央商店街とタイアップして南三重ふれあい市場を出店している記事でした。
 空き店舗の有効活用を狙う商店街側と、都市部に販路を拡大したい南三重の事業者の双方の思惑が一致した好事例かと思います。

 記事では尾鷲市のひもの業者、北村商店のインタビューが取り上げられていましたが、同じく南三重ふれあい市場に出店している御浜町の柑橘業者 御浜柑橘も、出店が直接のきっかけかどうかはよくわかりませんが、最近、柑橘の有効成分を活用した高付加価値な商品の開発にアクティブに取り組んでいるのが注目されます。
 現在は、春光柑(しゅんこうかん)というミカンに豊富に含まれるヘスペリジンやなどのフラボノイドを活かして春光柑エキス粒なるサプリメントを開発し、消費者モニターを募集しているようです。
 ■御浜柑橘ホームページ  http://www.mihamakankitsu.jp/
 
 いま、全国的に地域産業活性化のため、「アンテナショップ」とやらが大都市部に出店しています。
 しかし、その多くは単に田舎の物産を展示販売しているだけで、大都市の消費者から見ればほとんど個性のない(見飽きた)、ご当地の漬物やら、手作り味噌やら、郷土寿司やら、野菜やら果物やらのマンネリ商品ばかりです。
 売るほうも売りっぱなしで、大都市の消費者のニーズを真面目に聞こうとしませんから、食品でも小汚いビニール袋入りで売ってたりしますし、田舎の大家族仕様の「5枚入りの」アジの開きを平然と売っています。このような姿勢では、せっかくのアンテナショップも絶対に失敗です。
 幸いにも南三重ふれあい市場は、意欲の高い出店業者が多いようですから、ぜひ消費者の生の声を聞き、高付加価値の商品づくりや販売方法の開発など、イノベーションに挑戦してほしいと思います。

 もう一つうれしいニュースは、同じく本日の伊勢新聞に、海外の芸術家が紀北町内に滞在して制作活動を行う「アーティスト・イン・レジデンス」なる事業が実施されているという記事でした。
 アメリカ人の映像作家が紀北町のプロモーションビデオを撮影しているそうなのですが、何と東紀州観光まちづくり公社の事業である(こちらは正真正銘)東紀州長期インターンシップ事業で紀北町に滞在していた学生が、その映像作家のアテンドに参加している、という内容でした。
 これも、意欲のある学生のインターンから派生した、新たな展開と言えると思います。
 伊勢新聞の記事はこちら

 以上の記事を見ると、こと、東紀州に関する限り、地域振興の先頭グループはさらなる高みのステージに進化を始めたように見えます。

 その内容はたいへんシンプルです。

 ・高機能、高付加価値の商品・サービスの開発と提供(単なるご当地産品ではダメ)
 ・大都市の商店街や消費者、さらには外国人など、新たな顧客や関係者との関係づくり(仲間同士の仲良しごっこからの卒業)
 ・若者やよそ者の活用
 などの要素になるでしょうか。

 それともう一つ、持続可能な活動とするためにもビジネス手法が不可欠だということです。最低限の収益は自分たちで稼ぐ。さらに儲けを拡大して、自分たちの豊かな生活につなげる、という考え方がコンセンサスを得られてきたような気もします。

 一方で、これは、いいことか悪いことか非常に難しいと思うのは、ある種、採算を度外視したエコツーリズムを行っている団体が、エコツーリズム大賞を受賞したことです。こういう世界はあっていいし、活動内容も素晴らしいことははんわし自身、よくわかっています。
 大いに賞賛すべきこととは思うのですが、しかし、この活動が果たして本当に「自立的」で「持続可能」なのでしょうか。
 うーん、どうなのだろう・・・・
.

2010年1月6日水曜日

上野商工会議所が社会起業家創業塾を開催


 上野商工会議所のホームページを見ていたら、社会起業家創業塾の開催案内が載っていました。

 講師には慶応大学の井上英之氏、そしてNPO法人フローレンス代表の駒崎弘樹氏という日本のソーシャルビジネスの第一人者が招かれています。

 会議所に問い合わせたところ、すでに定員は締め切りまじかということです。
 社会企業に関心がある、特に伊賀地域の方は、ぜひこの機会をご活用いただきたいものです。

 はんわしは、数年前に三重県庁でのコミュニティビジネス事業の先鞭をつけたと自負していますが、その時にアドバイスやご支援をいただいたたのが、市全体を上げて、官と民の役割の議論を進め、新しい自治の形を模索していた上野市(現在は広域合併して伊賀市になっています。)でした。

 市の職員もコミュニティビジネスに熱心でしたし、まちづくりや福祉分野で活動しているNPOも多くあって、独特な伊賀文化というか、意気込みのようなものを感じたものです。

 そのような土台があるので当然かもしれないのですが、こんな素晴らしい講座を企画するというのは、三重県のコミュニティビジネス先進地 伊賀市の面目躍如のような気がします。

 実は、上野商工会議所の方に、第一日目の井上さんと駒崎さんの話だけでも聞けないかとお願いしたのですが、やはり「社会起業を目指す方以外はお断り。」ということでした。残念ですが仕方がありません。

 ちょうど同じ日、1月23日は、例の「美し国おこし・三重」対話する大会なる大仰なタイトルのイベントがあり、以前このブログにも書いたギャル農業の藤田志保さんが講師として津市にお越しになるようです。
 こっちでもいいかあ・・・・

 ■美し国おこし・三重 対話する大会
   https://www.shinsei.pref.mie.lg.jp/uketsuke/dform.do?acs=taiwa1tsu
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2010年1月5日火曜日

生活保障・・・排除しない社会へ・・・

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 同時代を生きているとよくわからないのですが、後世の人が2010年の日本を歴史学で学ぶとき、どのような時代であったと記憶するのでしょうか?

 こと経済に関しては、55年体制といわれた自民党の族議員と官僚が利権を支配する経済体制が長らく続き、汚職や官僚腐敗が続出して機能不全に陥ると、それに代わって小泉・竹中路線と呼ばれた新自由主義による市場主義的な改革路線が押し進められます。
 しかし、それは競争の激化を招き、その波に乗る少数の成功者と、振り落とされる多くの人を生み出しました。その結果、ワーキングプアや派遣切りに代表されるごとく、いかに日本の社会保障(セーフティーネット)がいびつで弱いものかが全国民に明らかになってしまいました。

 この本の著者の宮本太郎さんは、日本の社会保障は、「終身雇用のサラリーマン男性で、家族構成は専業主婦の妻と子供二人」というステレオタイプをモデルに構築された、男性の稼ぎ手中心のシステムであったと定義します。

 労働の非正規化が進み、女性の社会進出も進むと、このような「標準的な」モデルに当てはまらないパターンの労働者が大量に出てきました。しかし、年金にしろ、医療保険にしろ、雇用保険にしろ、この現実にはまったく対応できず、ひいては国民の間で社会システムに対しての不信感が極限まで高まっているのが現代日本の姿だと言うのです。

 では、どうすればよいのか。
 それが、小さな政府を目指す新自由主義でなく、大きな政府である北欧型福祉社会でもない、「第3の道」である、生活保障という考え方です。

 詳しくは本をお読みいただきたいのですが、生活保障(生活保護ではない)とは、今まで別々に考えられていた「福祉政策」と「雇用政策」を一体化し、労働を中心に福祉と雇用を再構築していこうという考え方です。

 この場合の労働とは、単に生活費を稼ぐ目的ではなく、労働を通じて社会に参画し、人とつながって、その人にとっての社会の居場所を確保する、という意味づけが強くなされています。

 人が社会とのつながりを失ってしまうのは、加齢による退職とか、病気によるドロップアウト、失業などさまざまな原因がありますが、共通する課題は「居場所」をなくしてしまうことです。
 この本の副題である「排除しない社会」とは、ともすると、
 学校教育(青少年期)→労働(壮年期)→退職(老年期)
 という単線型のライフスタイルしか存在できない日本において、この図のように、教育、家族、加齢、失業などの4つのステージを自由に行き来できる社会を目指すべきことを示しています。

 確かに、世の中に出てはじめて社会への関心とか、勉強の必要性に気づくこともあるでしょう。その場合は、仕事を休んで学校に復学することができる。
 また、仮に失業してしまっても、職業訓練を受けて新しい成長分野の産業に再就職できる。
 もし子育てや家族の介護が必要になって休職することになっても、その間の収入が保証され、復職もたやすくできる。
 などのような柔軟な雇用システムを作り上げていくことです。

 宮本さんは、労働を中心としたこの4つの要素をつなぐものを「4つの橋」と表現しますが、この役割をもはや行政が完璧に果たせるとは思えません。この部分にこそ、コミュニティビジネス(ソーシャルビジネス)の出番があるような気がします。ここをマーケットとしたビジネスモデルの構築が急がれるます。

 余談ですが、宮本さんが都道府県による先進的な産業政策の例として三重県の知識集約型産業化を賛辞しているのはご愛嬌というべきでしょう。知識集約型産業政策は、要するに製造業のバージョンアップにしか過ぎず、今問題になっているジョブレスリカバリーの原因を作っている一つなので、「生活保障」の考え方とは実は正反対であることは指摘しておきます。
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2010年1月4日月曜日

今日から仕事始め


 たしか福翁自伝にあるエピソードだと記憶しますが、中津藩の下級藩士の家に生まれた福沢諭吉は、頭脳明晰で学問もできた少年だったのに、家禄が低く、しかも次男坊だったため藩内での出世はほぼ絶望的。親は早々と「寺の坊主にでも出そう」などと話していたそうです。
 しかも諭吉は大阪の藩邸で生まれ育ったため大阪訛りで、それをひどくからかわれたせいもあって、学問を志して長崎に出発するとき中津の地面につばを吐きかけて、「こんな頑迷固陋な田舎に二度と帰ってくるものか」と心に誓ったそうです。(後年になって福沢が立身出世すると、故郷と和解したようですが。)

 昨日NHKの大河ドラマ龍馬伝を見ました。
 客観的な史実によると、坂本龍馬は志士というよりも一種のフィクサーとして幕府や雄藩の間で活動していた政商であったのが実状に近いようです。
 しかも彼は貿易会社(海援隊)を起業したり、薩長同盟のきっかけをつくったほかに、何かこれといって大事を成したわけではありません。(海援隊もビジネスベースではまったく成功しておらず、龍馬の死後、早々と分裂しているはずです。)
 しかし、いまだに龍馬がヒーロー視されるのは、非常に筆まめでたくさんの手紙類を残しており、人となりがよく知られることや、写真も多数残っていること、そして何より「未完の大器」のまま33歳の若さで劇的な死を遂げているためでしょう。

 彼が本当に傑出していた点は、封建的な秩序や既得権でがんじがらめになっていた当時の国内産業(国内海運や海外貿易)に「国際法」というルールを持ち込み、「交渉」によって事態の打開を図ろうとしたことではないかと思います。
 このような発想は、おそらく龍馬以前で持ち得た人は皆無だったのではないでしょうか

 藩は独立国か、それとも徳川幕府が支配する日本国の一部に過ぎないのか、当時はそのことさえにも国内的な合意がなかったことから、外交で条約を結ぼうとしていた列強諸国は、交渉の真の相手方(つまり当事者となりうる本当の統治者)を探すのに一苦労させられます。
 幕府も形式的には統治権を天皇から委任されているので、自分は真の統治者ではないと抗弁する始末ですから、近代的な意味での国家主権という概念は、そもそも日本にはなかったことは明らかです。

 龍馬はそれを利用して、国際公法や国際私法に則って、藩や幕府との関係を築こうとしました。
 身分や家柄、石高、官職などで相手への交渉事にいくつものスタンダードがあった当時としては、このような「国際的な」ルールを理解し、誰に対しても法の規定に基づいて権利を主張し、義務を果たすという交渉を実践したことは驚異的な先見性だと思います。

 大河ドラマは決して史実ではなく(当然ですが)架空のフィクションであり、時代考証的にも明白に間違っている場合は多いのですが、それを前提としても、当時の土佐藩が武士階級の中でも特に身分、家柄の区別が厳しかったことが昨日のドラマではよく描かれていました。
 おそらく、自由な気風や、創意工夫がまったく生まれないように定向進化した、このような土佐藩の「社会的な装置」に嫌気がさして龍馬も故郷を出て行くことになります。

 振り返って現代の日本はどうでしょうか。

 巨大な土佐藩になっていないでしょうか。
 しかも「社会的装置」で一番恩恵を受けているのは、実は、ぬるま湯につかったままで、知恵も汗も出さず、全部を「お上」に丸投げしている一般庶民(つまり、我々自身)なのではないでしょうか。
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