2011年3月31日木曜日

SCMの弱点と、製造業の海外移転

 今日はわからんままに書いています。

 関東では4日連続で計画停電は免れているようですが、意外なところでとばっちりをうけてしまったのが、電力会社がここ数年、総力を挙げて普及を図ってきたオール電化住宅だそうです。
 家庭のエネルギー源を電気に「選択と集中」することで、割安な電気を使うことができる、火を使わないので安心、清潔、といったメリットが喧伝されてきました。
 しかし、いったん、電力事情が危機的になるとこの強みはたちまち弱みに変わります。

 日本のものづくりの源泉の一つはSCM(サプライ・チェーン・マネジメント)であるといわれます。生産工程のムダを省き、川上から川下へ、必要な部品や仕掛品を、必要な時に、必要なだけ届け、在庫や仕掛品を抱えることによるロスをなくして、結果的に高品質なものを作り出すという、非常によくできた仕組みです。
 しかし、この洗練されたSCMはコンピュータによる情報管理と、正確で安全な輸送手段があって初めて成り立つものです。今回の震災では、全国の中小企業などの協力(下請け)工場が網の目のようにつながっているSCMが途切れたことで、最終的にクルマを組み立てる大手メーカーが生産休止に追い込まれる事態に陥っています。

 東北、関東とも、被害を受けた生産設備の復旧が、被災者の生活再建と同様に重要な課題になりますが、ごく普通に素直に考えて、本質的なリスクをはらむSCMで成り立つ国内での生産活動は大きく見直されることになるのではないでしょうか。
 SCMは、土地が高く、部品の在庫コストが高い日本でこそ生まれてくる必然性があったと考えられます。もっと言えば、輸送手段の時間が正確だという几帳面な国民性もあったと思います。
 しかし、だだっ広い土地があり、輸送や保管の質が向上してくれば、やはり必要な部品は災害時に備えて予備もストックしておく、とか、最終的な組み立て工程の近くに、部品や仕掛品の工程もいてもらうほうが効率的なのは間違いないとすれば、東北、関東のものづくり産業が海外に移転することは必然ではないかという気がするのです。

 

2011年3月29日火曜日

鎮静剤を使った胃カメラをやってしまった!

 年明け早々に総合病院で人間ドックを受検していたのですが、その精密検査に行くのがずるずると遅くなってしまっていました。
 わしの年になると、ほとんど何かの項目では要精検と判定されるので、胃カメラ検診要と言われてもそれほど違和感はなかったのですが、それにしても胃カメラは数年ぶりに呑むことになるので、ついつい決心が鈍ってしまっていたのです。

 ドックを受けた総合病院で胃カメラをするには、一度内科の外来で診察を受け、検査の日取りを決めて、あらためて胃カメラの検査をすることになるので二度手間だし、検査の日程が取れるのも10日くらい先になるというので、近所の胃腸科を標榜する診療所に行くことにしました。

 そこは、電話でドックの精検だと告げると、ああ、それなら明日でもお越しください、とごく簡単にOKしてくれます。
 メシ抜きで朝一で医院に行くと、先生はドックの検査結果にチラッと目を通しただけで、あ、じゃあ、今からやりましょう。と即決。
 
 胃の動きを止めるためのセスデンとか硫酸アトロピン、ノドの麻酔であるキシロカインを注射されたのはいいのですが、もう一つ、なんかよくわからない注射をされて、ベッドに横たわりました。
 先生がやってきて、じゃあ、今から入れますねー、と声を掛けられたところまでは覚えているのですが・・・
 気がつくと、全然別の部屋のベッドで寝ていました。
 いつの間にここへやって来たのだろう?
 ノドに軽い痛みがあるので、寝ている間に検査は終わったのだろうか・・・?

 ふと見ると、目が覚めたら受け付けに申し出てください、というメモが置いてあり、立ち上がると何だか頭がふらふらする感じです。
 受け付けに言うと、診察室に回され、中に入ると先生がくるっと振り向いて、「調べましたけど、なんともありませんでしたからね。ハイこれ、写真。ね、あなたキレイな胃ですよ。問題ないです。」と、自分の胃の粘膜の写真をもらいました。

 数年前に総合病院で胃カメラをやった時は意識がハッキリしていたので、呑むときに少々苦しみましたが、自分の胃の中をリアルタイムで見るという体験をしました。
 今回は全身麻酔だったのだろうか。しかも、特に説明もなかったし。
 ちょっと腑に落ちない気持ちもあって、家でネットで調べてみたところ、出るわ出るわ。今は(麻酔ではなく)鎮静剤を打って、昏睡している間にカメラを飲ませてしまうという鎮静法という検査方法が一般的なようです。

 リたとえば 胃カメラ(内視鏡)を楽に受けようよ!
         http://www.ichou.jp/icamera/index.htm

        苦痛のない内視鏡検査(大西病院ホームページ)
         http://www17.ocn.ne.jp/~onishigh/right.html


 確かに、どうしてもカメラは呑めない人(医者の上手い下手で苦痛は全然異なりますが)にとっては眠っている間にやってもらうほうがラクかもしれません。医者もやりやすいのでしょう。

 実際、わしもラクと言えばラクでした。一切意識がなかったのですから。
 しかし、一般的には、せめて血圧は測るとか、事前に鎮静剤を注射するという告知はあってしかるべきだと思うので、その点がやや腑に落ちないところでもあります。まあ、胃に異常はなくてよかったのだけれど。

2011年3月28日月曜日

スペースアートの「かがり火」



 半年くらい前から、近鉄宇治山田駅の構内に展示してあるのが、このかがり火照明です。
 いつかこのネタを書こう書こうと思っているうちに、とうとう平成22年度も年度末になってしまいました。

 これは伊勢市にある看板・ネオンサイン製作会社 株式会社スペースアートが製造販売しているもので、この動画だと周りが明るいので見にくいのですが、まるでたきぎが本当に燃えているように、メラメラと炎が動き、光り輝くさまがリアルに再現されています。
 暗い場所で見ると、非常に美しく、幻想的でさえあります。

 この技術は、擬似炎発光用の放電ランプ及び該擬似炎発光用の放電ランプを用いた装飾用照明装置として、昨年7月には特許も取得しています。(特許第4557924号)

 飲食店、居酒屋、ホテル、さらには遊園地などでの演出を盛り上げる照明として利用できると思います。サイズは大・中・小とあって、販売だけでなくリースもやっています。

 実はこれ、三重県をはじめ、財団法人三重県産業支援センターや伊勢市産業振興センター、さらには経済産業省も、技術開発や商品化の支援を行ってきています。
 ここらあたりで、一発、大ブレークしてほしいのですが。
 
 ■株式会社スペースアート http://spaceart.co.jp/

2011年3月27日日曜日

防護服は放射線を遮蔽できない

 三重県紀宝町、南伊勢町で2月に発生した鳥インフルエンザでは、感染の疑いのある鶏の殺処分などに多数の県職員が動員されました。
 はんわしも数時間、殺処分に従事したのですが、その作業の時に身に着けていたのが、タイベック ソフトウェアⅢ型という防護服です。
 米国デュポン社が開発した高密度ポリエチレンの不織布でできており、外見や肌触りは紙のようで非常に軽く滑らかで、通気性もあって、下着、ジャージを着た上にこのタイベックを来て鶏舎の中で作業したわけですが、狭く蒸し暑い鶏舎の中でも予想していたよりは快適に作業できました。

 防護服.COMというサイトがこのタイベック ソフトウェアⅢ型を詳しく紹介していますので、詳細はこちらをご覧ください。
 0.5ミクロン以上の粉塵に対し99.2%の高い防護性を有しており、空気中の粉塵のサイズは、通常5~10ミクロンだそうなので、ほとんどが防護できることになります。
 不織布には帯電防止加工が施されていますので、静電気による粉塵の付着も防げるそうです。また、すべての縫目とジッパー部をテープシームし、あごカバーをつけることにより、防じんマスクとの間に隙間を作らない密閉構造になっているという優れた製品です。
 写真を見たらお分かりのように、全体は白色で、シームテープ部分だけが青色なので見た目は大変特徴的です。

 さて、福島第一原発では東北関東大震災による放射線漏れが続いており、東京電力や自衛隊をはじめ、関係者の必死の努力が続いています。本当に敬服しますし、これ以上の悪影響が広がらないことを心からお祈りしています。

 しかし、驚いたのは、そして鳥インフルエンザに従事した県職員たちが異口同音に言うのは、報道で見る原子力発電所対策に従事している皆さんも、明らかにこのタイベック ソフトウェアⅢ型を着用して作業しているということです。

 あの薄くて軽い服は放射線も防げるのかという驚きもありますし、冷静にわが身を振り返れば、鳥インフルの病原菌は非常に危険なものだったという証明にも解釈できます。
 先日も、鳥インフルに従事したことがある職員が何人か集まった時に、この話になりました。

 しかし、タイベックの事実上の公式ホームページであると思われる、旭・デュポン フラッシュスパンプロダクツ株式会社のサイトによると「防護服に関するお知らせ」というアテンションがあり、

Q1.タイベック®防護服、タイケム®防護服は放射線を遮蔽できますか?
 いいえ、出来ません。
 エックス線やガンマ線などを遮蔽する能力を持つ遮蔽体は一般的に鉛を含む構造物が利用されています。例えば、病院などのレントゲン撮影で被写体の体にかける鉛入りの重いエプロン等があげられます。 
 タイベック®防護服、タイケム®防護服は放射性粉じんの付着による害を防ぐ目的で着用されています。
 これらは放射線を防護する機能がないため、作業者は規定被曝量に達する前に作業を終了する必要があります。

 と書かれています。

 これを読むと、何だか、非常に複雑な気持ちです。
 もちろん、きちんと訓練を受けた皆さんが、確立した作業手順が守られた上で着用しているので間違いはないのでしょうが、あの薄い服を着て、放射性物質が浮遊している現場で作業しているのです。

 そう考えると遠い福島の出来事が、かぜんわが身に近づいてきます。 
 ただただ、従事する方の安全を願うばかりです。

 

2011年3月26日土曜日

伊勢・寂照寺の伽藍が国登録有形文化財に

 国の文化審議会は、3月18日に開催された文化審議会文化財分科会において、登録有形文化財(建造物)の新登録などを文部科学大臣に答申しました。

 三重県内からは、重要文化財(美術工芸品)1件、登録有形文化財(建造物)7件が答申されましたが、この中に、伊勢市にある寂照寺(じゃくしょうじ)の金毘羅堂、観音堂、山門の3つの建造物が含まれています。











 寂照寺は1677年、京都知恩院の第37世 寂照知鑑上人が建立した浄土宗のお寺です。
 徳川幕府の二代将軍である徳川秀忠と、その妻であり、織田信長の姪にあたる(NHKの大河ドラマ「江 姫たちの戦国」の主人公である)江(ごう)姫との間に生まれた娘 千姫の死後、その菩提を弔うために建立されたそうです。

 千姫は幼くして豊臣秀吉の子である豊臣秀頼と縁組し、大阪夏の陣により豊臣家が滅亡した後は、徳川家の重臣であった本多忠刻と再婚。忠刻との死別後は江戸城に戻り、70歳という長寿で没しました。
 伊勢神宮への崇敬が特に篤かったことから、この伊勢・古市の地に立てられたもののようです。

 このように幕府とゆかりの深い寂照寺でしたが、江戸時代中期の一時期には寺運が傾き、伽藍も荒廃したそうです。
 そこで、狩野派に学んだ画僧 月僊(げっせん)が住職として派遣され、絵画を描いて得た資金を元手に再興を果たしたという歴史を持っています。

 今回、国登録有形文化財となるのは、いずれも江戸時代後期から末期の建築として特徴的なものであり、寂照寺の伽藍を形成する重要な建物だということです。
 たまたまこの日は施餓鬼会が行われていましたが、普段は全く静かな環境であり、境内にも自由に入れます。(建物内の拝見は不可のようですが。)

 伊勢志摩地方を代表する秀峰、朝熊岳も遠くに望むことができます。











■寂照寺について(伊勢市観光協会公式ホームページ)
 http://www.ise-kanko.jp/base_data/base_data.php?info_cd=00314

■国の重要文化財(美術工芸品)の新指定及び登録有形文化財(建造物)の新登録の答申について(三重県ホームページ)
 http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/2011030335.htm

伊勢参宮街道を歩く(その1)(2011年2月13日)

江(ごう)の生涯(2011年3月14日)

2011年3月25日金曜日

まじめな観光

 東北地方の状況は、報道を見る限り、やや落ち着いてきたようです。
 福島原発の放射能漏れや、被災者の当面の避難生活のケアなど依然として大きな課題は山積していますが、世間ではようやっと震災の復興についても目を向ける状況になってきた気がします。
 企業への影響もかなり深刻です。おそらく天文学的な金額となる復興費用は、国債発行を中心に、臨時的な増税によってまかなう必要があります。しかし、実際に国民や国内企業にその担税力があるかはまた別の問題でしょう。
 日本の国債発行残高はGDPの2倍近くになっており、世界の先進国で突出した異常な赤字財政で、破綻寸前なのは明らかです。幸運にも今までは奇跡的に、国債の暴落も、金利の上昇もなく過ごしてきました。
 しかし「今まで何も起こらなかったから、今後も起こらない」ことはあり得ないわけで、復興に必要な大量の国債発行が財政破綻の引き金を引く懸念も現実的になってきます。

 その中で、私たちが行えることは何か。

 まずは義援金や募金。これはその通りです。
 支援物資の提供もあるでしょう。三重県内でも多くの中小企業や団体が、毛布や衣類、食品などを提供してくれています。本当に素晴らしいことです。
 さらに、余力があればボランティアとして実際に現地に行く手段もあります。これはきっと、4月以降本格化してくるでしょう。全国から多くの人々が従事することと思います。

 しかし復興ボランティアの活動も、なかなか普通の人間ができることではありません。大多数の一般庶民ができる支援は何でしょうか。

 そう考えていくと、、普通の経済行為を継続すること、になると思います。

 普通に買い物する。
 普通に外食する。旅行に出かける。
 スポーツ観戦やコンサート、ライブに行く。

 その時に、できれば被災地の支援になる選択ができれば、より良いのでしょう。例えば三陸産の製品を買うとか、北関東産の酒を飲むとか。
 そういった選択が無理な場合であっても、今回の被害は甚大で、全国どこもが多かれ少なかれ悪影響を受けています。
 仮に北海道産であっても、北陸製であっても、いたずらに萎縮したり、自粛したりでなく、普通に買ったり食べたり飲んだり、普通にお金を使うことで経済活動は減速が少なくて済むはずです。

 観光も良いと思うのです。
 もちろん、馬鹿げた物見遊山はいけません。被災地の気持ちを思いやるべきですし、何より復興の妨げになったり、 危険性が残っている場所に立ち入ってはならないのはもちろんです。

 しかし、観光イコール遊興、物見遊山とは限りません。
 まじめな観光客による、まじめな観光旅行もあるのです。(産業の現場を観光する産業観光が、まじめな観光の代表格です。)
 被災県も、全部が全部、壊滅的な被害を受けている地域ばかりではないでしょう。
 実際には日常生活にはほとんど支障がなく、観光客の受け入れが可能な地域もたくさんあるはずで、むしろ風評被害や過度の自粛風潮に困惑している場合も多いのではないでしょうか。
 
 もちろん、観光という行為は好奇心と裏腹なので、ある種の(表現は不適当かもしれませんが)娯楽性を拭い去ることはできません。しかし、あくまでも、これは「まじめな」観光なのです。

 それによって被災地の厳しさを学び、必要なことを学び、日常生活に戻ってからも生活の心がけにつながれば、そして、観光の経済的な対価を地元にもたらすことになれば、それは我々庶民にもできる復興支援になります。
 もし迷惑にならなければ、東北を旅行してもいいのではないでしょうか。まじめな観光に。

2011年3月24日木曜日

近鉄宇治山田駅が開業80周年

 三重県伊勢市にある近畿日本鉄道(近鉄)宇治山田駅は、昭和6年3月17日、近鉄の前身である参宮急行電鉄が大阪上本町駅から宇治山田駅間を全通運転したことにあわせて開業しました。
 鉄骨鉄筋コンクリート造3階建。ヨーロッパ風のテラコッタタイルやスペイン瓦を用いた当時としては斬新な外観であり、今なお伊勢神宮の玄関口としての威容を誇っています。
 現在も、若干の補修は加えられたものの、外観は建設当時とほとんど変わっておらず、平成13年には国の登録有形文化財に指定されています。


 3月13日から21日まで、「宇治山田駅 開業80周年記念行事」が宇治山田駅構内で開かれ、写真や鉄道用品の展示、鉄道模型の運転、記念入場券や鉄道グッズの販売などが行なわれました。
 会場は、団体旅行専用の改札口がある、ふだんは一般客は入場できない団体待合室でした。


 マニアにはたまらない、かつて近鉄電車がつけていたホーロー製の行き先表示板(テツ業界でいうところの「サボ」)たちです。仮に値段がついたら相当な高額になることでしょう。
 参宮急行時代の電車の写真や、近鉄ビスタカー(初代、二代目、三代目)、スナックカー、あおぞら号など懐かしい名列車の写真も数多く展示されていました。


 興味深かったのは、駅兼消防署時代のたくさんの珍しい写真です。
 宇治山田駅舎には正面向かって右側に望楼があります。これはデザイン上のオブジェだったと思われますが、昭和6年の建設当時はおそらく市内一の高層建築だったのでしょう、宇治山田市(当時)消防本部の火の見櫓として消防署員が常駐しており、昭和43年まで使用されていたそうです。


 もう一つ、昭和15年に撮影されたという宇治山田市の航空写真です。戦時中であったことを思うと、これも非常に貴重なものだと思います。


 市内は多くが瓦屋根の低層住宅で、ビルなどはほとんどありません。また、幹線道路の形状も今とは全く異なっています。
 写真右側の宇治山田駅前はかなり広い空き地になっているほか、国鉄山田駅(現JR伊勢市駅)の北側は田んぼになっており、都市化している現在からは想像もできないのどかな光景です。
 また、写真左下が三角形に白く塗りつぶされていますが、ここには伊勢神宮外宮がありますので、機密保護の上から処理されたものと想像されます。
 同じく左上にも四角形の白い塗りつぶしがありますが、ここは外宮の別宮である月夜見宮のようです。
 昭和20年7月、伊勢市も米軍の空襲を受け、市街地の約5千戸が焼失、100名以上の死者が出ました。戦後復興の際の都市計画によって、道路や町並みは大きく変わることになります。

 色々珍しいものを見せていただきました。近鉄宇治山田駅の皆様、および、貴重な写真をはじめ展示物を見せていただいた皆様に感謝いたします。

2011年3月23日水曜日

くるくる巻き取り式でどこへでも運べる太陽電池

 GIGAZINE(3月22日付け)によると、株式会社オーエス(本社 大阪市)が開発した どこでも発電 モバイルソーラーユニット GSR-110B なる太陽電池が注目を集めているようです。

 これは、超薄型の太陽電池シートをくるくると巻き取ってどこでへも持ち運び、発電できるモバイルソーラーユニットです。

 外形はW510×D130(太陽電池収納時)~1200×H114
 重量は約3kg
 価格は6万円前後
 12Vニッケル水素電池を内蔵し、5時間のフル充電により、携帯電話、ラジオ、ビデオカメラなどの製品なら数時間作動させることができるようです。



 原子力発電所の事故、そして原子力に依存した結果の電力不足の出来によって、エネルギーのポートフォリオは早晩見直しが迫られることでしょう。
 オール電化住宅や電気自動車も、安定した豊富な電気エネルギーの供給が前提にあってのものであり、今回のような不測の事態が発生すると、大きな限界も明確になってきたようです。
 やはり、液体で運びやすく汎用性も高い石油エネルギー(ガソリン、重油、軽油、灯油など)はまだまだ根強い信頼感を保っていると言うべきでしょう。

 しかしそれと同時に、太陽光発電についてはこの巻き取り式ポータブルバッテリーのような新商品や新技術開発がいっそう盛んになると思いますし、エネルギー関連のほかにも防災用品とか災害時のQOL(生活の質)を維持、向上させるような商品や技術、サービスはますます商品化が進むことでしょう。期待したいと思います。

2011年3月22日火曜日

外国人もたくさんいる

 今日、外国人との共生を進めているNPOの代表者とお話しする機会がありました。
 そう言われて初めて思い至ったのですが、被災地には日本人ばかりではなく、外国人もたくさんいるはずです。

 製造業の現場で働いている外国人やその家族、それに、水産加工業などの現場でOJTしている外国人研修生など。
 津波の被害が多かったリアス海岸沿いの漁村には、特に後者の研修生は多かったことと思います。

 現地の様子は、もちろんわしにはわからないのですが、その人たちの言葉で、十分な情報は提供されているのでしょうか。

 そのNPOの方によると、「この地震で富士山が噴火すると聞いたが本当か」などといったデマの真偽や、原子力発電所の事故について、さらには現地で必要とされている支援は何かといったような、さまざまな相談がNPOに外国人から寄せられているそうです。
 
 あらためて、日本にはたくさんの外国人がいて、その多くは日本社会に溶け込み、根付いていること、そして、この意味では日本のどこであっても「グローバル化」は後戻りできない事実となっていることを再認識します。

2011年3月21日月曜日

浦村カキで有名な鳥羽市浦村町に行ってみた

 早いもので地震の発生から10日がたちました。昨日は宮城県石巻市で奇跡的に2名の被災者が救出されたそうです。厳しい状況はありましょうが、まだまだ希望を捨ててはいけないのかもしれません。

  さて、はんわしの出身地である鳥羽市でも、地震による津波のため、カキやノリの養殖施設に被害が出ているとのニュースが報じられていました。
 観光業が地場の主要産業である鳥羽市にとって、どのような影響が出ているのか。浦村かきのブランド名がそこそこ有名になりつつある、鳥羽市浦村地区に行って見ました。


 浦村へは鳥羽の中心市街地からパールロードと呼ばれる県道を通って、クルマで15分程度です。
 三重県沿岸の海岸線は、伊勢湾内湾沿いは平坦な渚が続きますが、伊勢市二見町の神前岬を境にして太平洋側は熊野市の鬼が城まで、リアス式の入り組んだ地形が続きます。
 ここも、麻生の浦(おうのうら)という入り江になっており、カキ養殖の適地として一大産地になっているのです。
 


 実際に海岸に下りてみると、破損した筏や、バラバラに壊れた残骸が目に入ります。
 適当にその辺の地元の人に聞いてみると、津波で水位が上がった被害より、波の激流で筏が激しく揺さぶられて、固定しているロープや、筏からぶら下げられている養殖かごをつないだロープが切れて、養殖カキの多くが流出してしまったとのことです。


 パールロード沿線には、ここ数年で、カキ養殖漁家が直営している直販店や飲食店が次々とオープンしています。ちょうど冬から初春にかけてはカキの最盛期なので、たくさんの観光客がおり、店頭で販売している焼カキを行列して購入している姿も多く見かけました。

 その意味では、あまり深刻な影響はないように思えました。実際に、鳥羽市観光協会のホームページには「3月16日現在、東北地方太平洋沖地震による影響はありません。」と断言されています。
 ただ、カキ食べ放題の店の一軒に立ち寄って聞いてみたところ、当面販売するカキは筏を沖へ出しておいたのでよかったのだが、来年に出す予定だった稚ガキが大きな被害を受けたので、来シーズン以降をどうするかが養殖漁家にとって課題だとのことでした。

 宮崎県で口蹄疫が流行した時、松阪牛が実は子牛を宮崎から購入していることを初めて知りました。浦村カキも種となるカキは三陸地方から購入しているそうで、東北地震の影響が三重県でも深刻になりそうです。


 帰りに、ホームセンターや大型スーパーにも寄ったのですが、乾電池(特に単一)や懐中電灯は売り切れており、空になったショーケースにお詫びの紙が張られていました。
 お米やトイレットペーパーも品薄で、お米は一人一袋にしてください、との張り紙もされていました。店内は節電のためか冷蔵ケースや商品棚の電気が消されて薄暗く、なんとなく気分的にもどんよりとしてしまったのでした。

2011年3月20日日曜日

究極のミカンジュース「したづつみかん」

 三重県最南端の町、紀宝町(きほうちょう)は紀伊半島の清流 熊野川と、茫洋たる熊野灘に囲まれた自然環境が豊かな場所です。温暖な気候を生かしてミカンなどの柑橘栽培が盛んな町でもあります。

 そこで活躍している若手農家の一つである石本果樹園から、このたび「したづつみかん」というミカンジュースが新発売されました。

 石本果樹園は別名「森のアイスクリーム」と呼ばれる高級フルーツ アテモヤの栽培でも有名ですが、本業は、一年中ほぼ12ヶ月間にわたって、自社農園で何らかのかんきつ類が収穫できるというミカン農家でもあります。

 三重県東紀州地域(紀北町、尾鷲市、熊野市、御浜町、紀宝町の2市3町からなる地域)を含め、紀伊半島南部はミカンが有名です。 
 ミカンを加工したジュースも、数え切れないくらいたくさんの農家や食品メーカーが、これまた数え切れないくらい幾種類も発売しています。

 これらは実際にミカンを丸ごと絞って搾汁した100%果汁のジュースなので、サントリーやコカコーラといった大手メーカーの安価なジュースとは質が全く違うことは間違いがありません。
 しかし、高価なのも確かで、1ℓ弱のビン入りで最低1000円以上はします。いきおい、観光客が土産物に購入するには慎重にならざるを得ませんが、かといって味や香りはどれも一定レベル以上なので比較のしようがなく、何となく見栄えがいいとか、値段が安めのもの買ってしまうパターンが多いように思います。

 このような混沌とした状況の中、今、石本果樹園が「したづつみかん」をリリースしたのには理由があります。

・ジュースの原料である早生温州(わせうんしゅう)ミカンは、完熟したものを12月に収穫後、さらに50日間の「追熟」(ついじゅく)という特別な工程を経たもので、加糖してある大手メーカーのものと違い、13度という糖度(甘味)を実現。さらに口当たりの良い「とろみ」も出すことができた。

・ジュースへの加工は、紀宝町に隣接した熊野市にある、最新鋭の工場で搾汁、ビン詰め。原料のミカンと共に、加工も地元で行っている。

・ミカンジュースの箱とラベルは、地元の高校生によるデザインコンペを行い、選ばれたものをブラッシュアップして使用。古来からこの地には多くの人々が熊野詣にやって来ましたが、その市女笠姿の巡礼女性がのどを潤している、洒落たデザイン。
 
 これらがいわば満を持して、このたびの発売になったようです。

 はんわしも入手し、冷やして飲んでみましたが、甘さ、酸味、香りともに最高です。そして少し、とろっとした口当たりを感じます。
 まさに究極のミカンジュースと呼べるのではないでしょうか。

 ホームページによると、東紀州の道の駅などを中心に販売されているようなので、観光や熊野詣に行かれた方はぜひ購入してみてはいかがでしょうか。

 ■石本果樹園 http://www.zc.ztv.ne.jp/isimoto/

 ■したづつみかん の発売までの道のりはこちらのブログ
   柑橘系男子の甘酸っぱい農業日記
   http://ameblo.jp/mikan321403/entry-10835884414.html

2011年3月19日土曜日

盛り上がらない地方選挙が心配

 戦後の地方自治制度において、後世からは間違いなく画期的な出来事の一つと評価されるであろう、名古屋市議会議員選挙での減税日本の躍進も、未曾有の国難とも言うべき大震災の影響で、大きく報道されることはありませんでしたし、詳細な分析もほとんど論じられていないのではないかと思います。

 三重県でも4月には知事選挙があるわけですが、何人かの知り合いと話していても、北勢地方の人は中勢地方を地盤としている候補の人柄をまったく知らないし、南勢地方の人も北勢地方を地盤としている候補のことをほとんど知りません。皆さん、異口同音に、知事候補者のどこで人物を判断をすればいいのか、その基準がわかりにくいと言いますし、はんわしもそう思います。
 このままでは、本格的な政策論争などほとんど盛り上がらないまま、ただ候補者の「見た目」とか「人当たり」、あるいはバックについている支援組織の力学によって大勢が決まってしまう可能性が非常に大きいでしょう。投票率が伸び悩むことも危惧されます。

 一部の市民団体が公開討論会を主催したりしているようですが、開催したという結果はマスコミに報道されても、肝心の討論の内容がほとんど報じられないため、その場にいた参加者はともかく、後で知った人には残念ながらこれでは判断基準になりません。
 県内の報道関係者の皆さんには、ぜひ今後、建設的な政策論争となるような報道をしていただきたいと思います。



 

2011年3月18日金曜日

こだまでせうか、いいえ、誰でも

 この一週間、民放テレビのCMは、ほとんどがACジャパンの「公共広告」が占めています。
 今はまさに非常事態なので、ソフトバンクに代表されるような、低俗でお馬鹿なCMは流しにくいという配慮が放送局にも働いているためでしょう。
 「CMは文化だ」という説はごもっともなのですが、売らんかなの奇をてらったCMに比べて、なんだかACのCMは心が和んでいい感じです。
 被災した方には申し訳ないのだけれど、テレビがいい空間になってきたような気さえします。


 はんわし的にはポポポポ~ンという「魔法の言葉」も頭にこびりついてしまっているのですが、映像、音楽(BGM)、ナレーションともに最高だと思うのが、金子みすゞの「こだまでしょうか」です。(原題は旧仮名遣いなので こだまでせうか となります)

「遊ぼう」つていふと
「遊ぼう」つていふ。

「馬鹿」つていふと
「馬鹿」つていふ。

「もう遊ばない」つていふと
「遊ばない」つていふ。

さうして、あとで
さみしくなつて、

「ごめんね」つていふと
「ごめんね」つていふ。

こだまでせうか、
いいえ、誰でも。

 金子みすゞは明治30年、山口県に生まれました。地方に在住していたこともあって詩人としてはほとんど無名なまま生涯を終えており(しかも彼女は26歳の若さで自ら命を絶っています。)、広く世に知られるようになったのは、死後。それも、たかだかここ20年くらいのことです。

 明治、大正という、まだまだ女性が男性に比べ蔑視されていた時代は、みすゞのように才能に恵まれた女性には生きにくい時代だったのでしょう。
 彼女の詩は、まなざしの優しさ、表現の平易さ、しかも物事の本質をずばり突いている感性の鋭さなど、今なお大変な魅力を持っています。

 よく言われるように、阪神大震災は不幸なことではありましたが、日本に「ボランティア」を本格的に根付かせ、文化にした画期でもありました。
 今回の震災も、何か日本社会を全く新しいタームに転換させてゆくきっかけになるのではないでしょうか。
 いや、そうすることが残されたわし達にとっての責任ではないのでしょうか。
 そのことを予感させる「こだまでせうか」にも思えます。

 YouTubeには、このCMの60秒バージョンがアップされていますが、ちょっと感動ものです。(リンクはこちら

2011年3月17日木曜日

レトルト食品はどれも同じ味に思えるのですが

 先日、尾鷲市の事実上の「道の駅」である、尾鷲お魚いちば「おとと」に行き、お店のリニューアルにあわせてラインナップされた、東紀州一円の特産品を大人買いしてきました。
 といっても5000円分くらいですが。

 その中でも、中心になるのは、やはり尾鷲港で水揚げされた海産物を加工した食品です。
 サンマ、タイ、マグロ、アジ、サバなど魚はいろいろありますが、おそらく全国どこでもそうであるように、これらの魚を使った土産物は「甘露煮」であったり「うま煮」であったりします。たまに燻製とかもあります。そして、ほとんどはレトルトパウチ加工されています。

 わしは基本的に食通ではなく、味の細かいことは気にならないし、味比べとかも苦手なほうなのですが、それでも前々から不思議だった、と言うか、納得いかなかったことは、パッケージに書いている
「レトルト加工しているので、どこでも出来たての味が楽しめます」
 というようなキャッチフレーズです。

 なぜなら、レトルトになってしまうと魚の甘露煮など、たとえ素材がアユであっても、モロコであっても、フナでもコイでもサンマでもカツオでもマグロでも、どれでもほとんど同じ味しかしないように感じるからです。
  
 あらためてウィキペディアを見ると、
・レトルトパウチ食品とは「プラスチックフィルム若しくは金属はく又はこれらを多層に合わせたものを袋状その他の形に成形した容器(機密性及び遮光性を有するものに限る。)に調製した食品を詰め、熱溶融により密封し、加圧加熱殺菌したもの」と定義されている。
・原則として、容器内部の食品中央部において120℃で4分間、またはそれと同等の熱がかかる状態に加圧加熱して殺菌する。
 などの特徴を有していて、衛生的、かつ常温での長期保存が可能となる画期的な食品技術として、昭和43年に大塚食品が発売した「ボンカレー」を嚆矢に、たちまち日本中に広まったそうです。

 魚の甘露煮のようなものも、それまではご当地でしか味わえないメニューだったでしょう。基本的に魚は地域性が強い食材であって、冷蔵技術が発達するまで、たとえばマグロなど決して一般的な魚ではなかったことは有名です。
 このように地域性の強い食材を使ったメニューを保存する方法は、昔は缶詰しかありませんでした。缶詰に比べてはるかに簡易な装置で加工が可能なレトルト食品は、地元食材を加工して特産品にし、広く全国に販路を求めていくという「地域産業おこし」にとっては天恵とさえいえるイノベーションでした。

 しかし、わしのような味オンチは思うのです。
 レトルトってどれも一緒の味ではないか、と。
 たとえこのマグロが熊野灘のものだろうと、大間のものであろうと、メバチだろうとキハダだろうと、同じように甘っからく、骨も皮もクタクタに柔らかくなっていて、しかも身はかなりパサついている、と。

 加工業者の皆さんはどう思っておられるのでしょうか?
 あるいは、グルメな消費者の方は? 味の違いってわかっているのか?

 まったく加工前と味も風味も変わらないレトルト技術ができれば、これは本当に、全国競争になっているご当地グルメ競争、特産品開発競争に、かなりのアドバンテージになると思うのですが。近畿大学水産学部あたりでできないものだろうか。

 

2011年3月16日水曜日

あんまり自粛し過ぎても・・・

 このたびの大地震では東北や北関東地域の壊滅的な被害に目が向きがちですが、先日、三重県が取りまとめたところによると、三重県でも水産業を中心に大きな被害が出ているようです。

 伊勢市や鳥羽市など海苔の養殖施設が破損。志摩市、南伊勢町、紀北町では真珠養殖施設、鳥羽市、志摩市ではカキ養殖施設にも被害があったとのこと。
 また、南伊勢、大紀、紀北の3町では養殖マダイ、マグロなどが死んだほか、各地で漁船の転覆や定置網の破損があり、被害の総額は40億~50億円にもなるとのことです。

 これは本当に大変なことだと思います。生業の手段を失った漁業関係者には一日も早い復旧を祈りたいと思います。

 このような状況なので、「自粛」ムードが世間に生まれてきたのも、当然といえば当然かもしれません。
 たとえば、アップルは3月26日に予定されていたiPad2の日本発売を延期しました。
 他にも公的な主催によるイベントやレセプションが次々と自粛されており、今日三重県のホームページを見ただけでも
・「しぜん文化祭inみえ」と「新博物館シンポジウム」
・ 歴史散策「歴史とロマンの大安を訪ねる」
・ニホンジカ食肉利活用状況等の報告会及びニホンジカ肉試食会
・医療スタッフへ「ありがとう」のメッセージを手渡すイベント
・三重県消費生活センター40周年記念「みんなで防ぐ悪質商法!賢い消費者になるための講演&イベント」
・平成22年度花のまちづくりコンクール表彰式
 などが続々と中止になっています。

 中には、なぜこれが地震のために中止や延期になるのか関連性がわからないものもあります。(逆に、この程度で中止にするようなイベントなら、最初からやらないほうが税金の節約になるものもあるのかもしれません。)

 繰り返しますが、地震に被災された方、被害を受けた方は本当にお気の毒ですし、それを考えると無意味な大はしゃぎは褒められるものではありません。

 しかし、かといって何でもかんでも自粛してしまうのは、世の批判を浴びたくないという世間体しか気にしていないからではないでしょうか。

 享楽的な浪費はともかく、せっかく営々と続けてきた活動が晴れて表彰されるとか、教養を深められる貴重な機会である講演会などまで自粛することに何の意味があるのでしょうか。

 ただでも不景気が広がりそうな気配です。
 これからの卒業、進学や人事異動のシーズンを前に過剰に自粛してしまうのは、地域経済を支えている飲食業者や小売業者を苦しめ、さらに経済を悪化させるだけだという視点も片隅に持つべきだと思います。
 むしろ、我々が進んで海苔や魚をもっとたくさん食べたほうが、漁民の方もきっと喜んでくれると思うのですが。

2011年3月15日火曜日

伊勢神宮に被災者の安寧を願う「祈り」集まる

 伊勢志摩経済新聞が、伊勢神宮内宮にある別宮である風日祈宮(かざひのみのみや)を参詣する人たちの声を取り上げています。

 風日祈宮は、級長津彦命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)という風の神様をお祀りしています。
 元々は小さな祠程度の規模だったらしいのですが、鎌倉時代末期、モンゴル帝国が2度にわたって日本に襲来した「元寇」の際に、奇跡的に北九州地方が暴風雨となりモンゴル船がことごとく沈没し、モンゴルは日本侵略をあきらめたという、いわゆる「神風」の功績をたたえて、風日祈宮という別宮に昇格し、大きなお社で祀られるようになったという歴史を持っています。
 現在でも、気象や海洋に深く関わる農林水産業に従事する方々の崇敬は厚く、昨年9月にはご遷宮に備えて風日祈宮橋が架け替えられたことは、ブログにも書きました。

 今回の大地震(東北地方太平洋沖地震と名付けられたようです)は諸外国のメディアにも大きく取り上げられているそうですが、そこで一番大きな注目を浴びるのは、被災者を含めて多くの日本人が緊急異常事態にあっても冷静・沈着で、諸外国では当然のように起こる暴動や略奪、パニックが全くないという「民度の高さ」とのことです。
 これがまさに日本民族、日本社会の真価であって、逆説的な言い方が許されるなら、このような最悪の事態の時だからこそ、その美徳が光り輝くのだと思います。

 ぜひ、伊勢志摩経済新聞の記事(3月14日付け)をお読みください。

 そして、機会があれば、伊勢神宮内宮の風日祈宮や、同じ祭神を祀る伊勢神宮外宮の風宮(かぜのみや)に足をお運びいただき、荘厳な雰囲気の中で祈りを捧げていただければと思います。

2011年3月14日月曜日

江(ごう)の生涯

 NHK大河ドラマ 江(ごう) 姫たちの戦国 について「リアリティがない」とか「時代考証が正確ではない」などの感想が視聴者から寄せられているそうです。
 しかしながら、当たり前のことですが大河ドラマは史実を下書きとした創作、フィクションであって、娯楽作品なのですから、歴史的な事実とは大きく異なります。

 この本、江の生涯 ~徳川将軍家御台所の役割~ 福田千鶴著(中公新書)によると、浅井三姉妹の末娘として戦国の動乱を生き抜いた江については、長女の茶々(淀殿)に比べて手紙や日記といった史料がほとんど現存しておらず、本当はいったいどんな人柄だったのかがよくわからない謎の多い人物というのが現実のようです。

 有名な京都養源院所蔵の江の肖像画も、著者の福田さんによれば、史実としては彼女のほうが夫より先に死去しているため、夫の死後の菩提を弔う剃髪姿(尼の姿)をしていることはありえないので、後世になっての創作なのは明らかだそうです。


 歴史上の人物の常として、その生涯には諸説があるのですが、福田さんの研究によれば江の一生は以下のようなものです。

1573年 出生。同じ年の9月には父浅井長政は自害。
<この間のいづれかの時期、三重県津市(伊勢上野城)に住んでいたか?>
1582年 10歳 母お市の方が柴田勝家と再婚。江も母・姉たちと北の庄へ移る。
1583年 11歳 北の庄を脱して豊臣秀吉の庇護を受ける。柴田勝家とお市の方が自害。
1586年 14歳 羽柴(小吉)秀勝と結婚
1592年 20歳 夫羽柴秀勝、朝鮮の役の陣中で病死。
1593年 21歳 徳川秀忠と再婚
1597年 25歳 娘(千姫)誕生
1603年 31歳 娘(初姫)誕生
1605年 33歳 夫秀忠、徳川幕府二代将軍となる。
1606年 34歳 息子(忠長)誕生
1626年 54歳 江戸城にて死去

 一般的には、江は生涯三度の結婚をし、三大将軍となる徳川家光を含めて8人の子供を生み育てたといわれています。
 また6歳年下の徳川秀忠を尻に敷いた恐妻、江戸城大奥制度を確立した女傑とも言われます。

 しかし、徳川秀忠と結婚した後も江戸と京都伏見で別々に暮らす期間が長かったこと、同居していても、表(政治・軍事を行う場)は男、奥(私生活)は女というように居住空間は分離されていたので、現代から思うほど行き来は容易ではなかったことから、徳川家光などの三男二女は江の実子ではなく、夫が側室や侍妾に生ませた別腹の子であったというのが福田さんの推測です。

 しかし、江という女性の真価は、まさにここにあります。
 この本の「御台所の役割」というサブタイトルが示すように、正室(本妻)の役割とは、跡継ぎとなる男子を得ることであって、自分が男子を得られない時は側室によってでも夫に男子の世継を得ることを決断するのが、まさしく正室としての度量の大きさを示していたからです。
 一夫多妻多妾が当たり前の時代にあっては、よくドラマにあるように、男子を産んだ側室に嫉妬するなどという度量の狭いことでは正室の役割は務まらなかったのです。
 その意味で、江は自分の立場・役割をよくわきまえていて、夫であった豊臣秀吉の権力を妄信して身を滅ぼした姉、淀殿のような失敗を犯さず、側室や侍妾の子でもわが子同様に接した典型的な武家棟梁=将軍家の妻であったのです。

 この本全体の感想としては、江の個人像というよりも、信長、秀吉、家康と権力が移り変わっていくさまや、それによって翻弄される家臣や小大名、そして女性たちの様子、さらに一夫多妻多妾という「家」の制度について知識を得るところが大きいように思います。

江姫が住んだという伊勢上野城に行ってみた(2010年12月5日付け)

2011年3月13日日曜日

まるで地獄絵のような津波のあと

 東日本大地震の被害は深刻です。
 繰り返し繰り返し流される、津波が押し寄せてきて人々や街を呑み込む映像も衝撃的ですが、そのあと、めちゃめちゃに破壊され、見渡す限り泥海のように変わり果てた町々の様子は何と表現していいのか言葉も浮かばないほどです。
 テレビを見て、あるいはパソコンで刻々と入るツイッターを見ながら事態を見守るしかない自分の無力感にさいなまれます。

 一昨日は三重県にも津波警報が出ており、わしの実家のある鳥羽市でも高台への避難が呼びかけられたようですが、実際に逃げた人は本当に少数だったそうです。実際には津波で養殖イカダが流出するなど、漁業に大きな影響が出たのにです。
 危機意識が薄くなっていると言えばそうなのですが、鳥羽市は高齢者も多く、短時間で高い場所に逃げるのが億劫な人、あるいは体力的に不可能な人も相当いるのが事実です。
 まわりにも「自分は高齢で歩けないし、何かあったらここで死んでもいい」と言っている人がいました。冗談半分でしょうが、本当にギリギリの状態になったとき、行政や、近隣コミュニティの役割にも限界があることは明らかです。

 東北の町々も、これからおいおい被害の詳細がわかってくるのでしょう。軽々にものは言えませんし書けません。 
 東海地方でも大地震が間もなくやってくることは確実です。その時に自分はどのように対処できるのか。家族は守れるのか。人の役に立てるのか。
 今のうちから考えておかなくてはいけないと思います。

 仕事柄、中小企業の振興策について日々考えるところが多いのですが、この種の「産業政策」などと言われる行政行為によくありがちな「成長戦略」などの前に、いったん災害が起こった時、どのように従業員の安全を確保するのか、とか、事業を継続するのかについて、平時から経営者や従業員に考えてもらい、万が一の時は少しでもリスクを低減し、分散することを図るのが、まず何よりも重要で、最も優先されるべき産業政策であると感じました。このような啓蒙による予防策が行政本来の役割なのだと思います。

 また、心配されるのは福島原子力発電所の動向です。もし仮に現状以上の何かの事象が起こった場合、地域が立ち直ることは極めて困難になると思われます。おそらく何十年もかかる事態になるでしょう。とにかくこのままで収束することを祈るばかりです。
 同時に、日本経済の行く末も気になります。被害の回復と予防には莫大な資金が必要になるでしょう。円安、金利上昇、政府財政の決定的悪化が予想されないでしょうか。増税も、結果的に早い時期に決断されるのかもしれません。


 

2011年3月12日土曜日

東京で地震に遭遇(その2)

(承前)

 携帯は、こちらからの発信はまったくつながらないのですが、着信はできて、家人や上司から連絡をもらいました。実はこのとき、東北がすごい被害で死者も多数出ていることなどはまったく知りませんでした。
 消防車がすごい勢いで走っていったので、どこかでボヤでも出たのかな、くらいには思ったのでしたが。(お台場の火事とか、TDLの水没などは後に知りました。)

 東京駅はかなりの混雑です。新幹線は17時10分ののぞみをグラグラ揺れながらも予約していたので、あと2時間ほどあり、それまでには運転も復旧するかな・・・、くらいの気持ちでした。

 とりあえず八重洲の地下街に降りると、地上の緊迫感とは異なってこちらは通常営業しており、お客さんたちが食べたり買い物していたりするのを見るとなんだか拍子抜けでした。

 万が一長期戦になると嫌だったので熱いラーメンを食べました。店員さん同士が東北はひどいらしいよ。津波警報だって。としゃべっています。

 そういえば先日から東北で地震が続いていたなあ。その影響か、とちょっと納得。

 東京駅に戻ると八重洲中央改札口の前に人だかりができており、テレビでニュースをやっていました。その時フラッシュバックしたのです。上空高く煙がもくもくとたち登り、地上で家々が赤い炎に包まれている映像。十数年前の阪神淡路大震災のときに見た絵とそっくりです。字幕では津波で自動車が数十台流されたとか、行方不明者多数、などと出ていて、この時点で初めてマグニチュード8という戦後最大級の大地震だったことを知ったのでした。被害に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。

 発生から2時間経っていました。

 長期戦になりそうだという悪い予感が当たりつつある感じでした。

 八重洲地下街に戻ると避難村のようなスペースが自然発生しており、十数名の人々が座り込んだり、寝転んだりしています。パソコンで何事かせわしくタイプしている人もいます。段取り大狂いなのでしょう。わしもとりあえず腰を下ろし、携帯で電話してみるのですがまったく通じません。なぜかメールは受信できるのですが。

 17時。首都圏の鉄道は全面不通で変わらずとの構内アナウンス。17時30分のアナウンスも同じ。18時も、18時半も、19時も、19時半も同じ。それでもきちんと情報をくれるのはありがたい。20時以降は何か変化があったらその都度アナウンスします、という内容に変わり、結局21時ごろに一部の地下鉄が運転再開した、という以外に情報はなくなってしまいました。

 避難村?の住人は100名近くになっており、地下街の閉店したお店のシャッター沿いに数百人の人々が座り込んだり、寝そべったり、酒盛りしていたりします。

 わしも避難村に5時間座りっぱなしだったので、そろそろ駅のほうに移動してみようと再び東京駅八重洲中央改札口方面へ。構内はもっとものすごい密度で人々が座り込んでおり、床という床、廊下、階段が埋め尽くされています。

 22時過ぎ。新幹線改札口付近にいた人たちが「大阪までは帰れそうだ」とか言っているので駅員に聞くと、東海道新幹線は暫定的に運転を再開していて、もうじき新大阪行きののぞみの最終列車が出る、と教えてくれるではないですか。

 さっそく荷物を持ってホームに上がるとすでに何人かが停まっているのぞみの前に列を作っています。グリーン車以外は全席自由席だそうで、ドアが開くと同時に乗り込み座席を確保しました。何時に出発するのか知らないけれど、とりあえず家人に電話。このころには通話は回復していました。情報を知った人々が続々と乗り込んできて席はすぐに満席になりました。驚いたことにこの事態の中、車内販売のワゴンがやってきて、兄ちゃんが、お弁当にお飲み物、ホットコーヒーはいかがですかあ、などと歩いてきます。なんだか和みます。弁当が飛ぶように売れていきます。

 23時ごろ、のぞみ出発。有楽町あたりの道路は大渋滞し、テールランプが赤い帯のように続いていました。新幹線の夜行列車は生まれて初めての体験です。品川に停まり、新横浜を出ると、特に速度制限もなく、所定の1時間40分あまりで名古屋に到着しました。

 すでに終電は出た後だったのですが、岐阜や豊橋、中津川方面には臨時列車が出されました。三重方面は亀山行きとのこと。

 伊勢までは行かないので、仕方なく明日の始発まで名古屋駅で待つことにします。

 JRが毛布を配ってくれました。駅の係員は全体的に親切でテキパキしており本当に感謝でした。遅延した特急料金を払い戻してもらい、始発の近鉄に乗って、朝7時半帰宅しました。

 テレビをつけると本当に悲惨な状況が映し出されています。これに比べたら、まだ自分の体験など生やさしかったと思うことしきりです。現在社会の自然災害に対する脆弱性を思い知らされたとともに、それでも数時間で新幹線が復旧するすごさも再認識したのでした。


東京で地震に遭遇(その1)

東京出張で地震にあいました。
 詳細はMixiで。

2011年3月10日木曜日

今年も四日市コンビナート夜景クルーズ

 四日市観光協会が、2011年のコンビナート夜景クルーズの申し込み受付を開始しました。

 昨年から本格的にコンビナートの夜景クルーズを観光商品としてリリースした同協会ですが、市民の評判が非常によく、毎週末限定のクルーズはキャンセル待ちが続出だったそうです。

 今年も5月から11月にかけての毎週金曜日と土曜日に実施されますが、金曜日はクルーズと四日市ポートビルからの展望がセットになったツアーで大人一人が3500円。
 土曜日は「四日市満喫プラン」と題して、市内のパワースポットを巡る観光と四日市トンテキの夕食などがクルーズとセットになったツアーで、大人一人8800円から9800円(シーズンで異なる)となっています。
 詳しくは四日市観光協会のホームページ(http://kanko-yokkaichi.com/index.shtml)を。

 はんわしが以前「産業観光」を担当していたことは、このブログでも書きました。JR東海相談役の須田寛氏などが提唱しているもので、ものづくりなどの産業の現場を観光資源と捉え、観光客の中でも知的好奇心の強い層をターゲットに、産業遺跡・遺構などの見学や、産業現場でのものづくり体験など、いわば「大人の社会見学」のような新しい観光を作ろうというものです。

 はんわしなどはこの考え方になるほどと思いましたが、当の観光業者には評判は今ひとつでした。やはり物見遊山的な観光が主流を占める中、なかなか採算が取れるような観光商品になりにくいから、というのが理由でした。
 一方で、ものづくりの現場にとっても工場は真剣勝負の場であり、見世物ではないし、第一機械が動いていたりして危険である、アテンドするような人的余裕もない、ということで、観光業界、製造業界双方からあまり評判がよくなかったのが現実です。(ただ一人、産業観光に尽力していたのは四日市商工会議所であり、バックアップしていたのは中部経済産業局であったことは、ここに明記しておきます。)

 しかし、四日市コンビートは立派な観光資源になっています。「観光」という表現がよくないのであれば、市民や消費者にとって「関心の的」であったと言い換えてもいいのですが。

 これは非常に示唆に富んでいる出来事だと思います。
 観光産業にしろ何にしろ、それが「価値があるもの」かどうかは供給側(この例で言えば観光業者やコンビナート企業)が決めるものではなく、顧客や消費者が決めるものである、という当たり前のことです。
 この視点を持てば、地域にあるさまざまなものが資源となり、商品となるということではないでしょうか。

 もちろん、資源と商品はレベルがぜんぜん違うので「商品化」のための努力は必要です。この部分が本質的なマーケットインでなくてはならないのは当然です。
 しかし、あまりに我々は固定観念にとらわれてはいないでしょうか。
 そのことを考えさせてくれる四日市コンビナートクルーズです。

 ■四日市コンビナート夜景クルーズに行ってみた (2010年6月16日付け)

2011年3月9日水曜日

「葉っぱがシェフ」が神楽坂に進出!

 今日の中日新聞夕刊を見て驚きました。
 前にもこのブログで紹介したことがある、尾鷲市の葉っぱがシェフJomonのメニューが、何と東京は神楽坂にオープンする神楽坂MARUDISHなるお店の看板メニューとして提供されるというのです!
 
 Jomonは尾鷲市の中心市街地、中村山のふもとにあるレストランです。
葉っぱがシェフとは、縄文鍋とよばれる土鍋に小石と季節の野草や草花の葉っぱを敷き詰め、その上に豚肉や魚などの具材を乗せて、蒸し焼きにした料理です。
 簡単に言うとそれだけのことですが、食材にほのかな草の香りが移って、えも言われない食欲をそそります。
 おそらく葉っぱの種類の組み合わせとか、季節とか、火加減とかに妙味があるはずで、もし素人が同じようにやってら失敗してよけいに不味くなってしまうことでしょう。
 尾鷲の隠れた名店として、はんわしは強くオススメします。 

 ■葉っぱがシェフ Jomon http://www.effect.to/~jomon/

 さて、神楽坂のお店は、Jomonが直営するのではなく、水産加工と食品製造メーカーであり、紀北町で道の駅マンボウ(三重県で最もはやっている道の駅といわれています)を運営している、株式会社ギョルメ舎フーズが経営するものです。
 東紀州にある地域性を活かし、紀北町内の料亭ともタイアップして、からすみ(ぼらの卵巣の塩漬け。ウルトラ珍味。かつ高価。)とか、ウツボの干物といったご当地のメニューも提供するそうです。

 東紀州では、行政や商工会などが地域産品の特産品化や都会への販路開拓などをわりと強力に支援しています。しかし、応援団がいくら力んでも経済活動は前に進まないわけで、やはりギョルメ舎フーズのような地域の有力な中堅企業が、企業家精神を発揮して果敢にチャレンジしていくことが一番大事だということが再認識されます。

 東京なので、なかなか行く機会はないと思うし、もし行くチャンスがあっても、三重の人間が東京で三重の料理を食っても珍しくもなんともないし、かえって東京価格で割高なのではないか?という気がしなくもありませんが、ともあれ成功を心から祈らずにはおられません。
 食を通じて東京のお客さんにも東紀州の魅力が伝わるといいと思います。

 ■市ヶ谷経済新聞 3月7日付け 神楽坂に三重の食材にこだわった和食店-情報発信の拠点に

2011年3月8日火曜日

海外事業拡大意向の企業が69%もある!?

 ジェトロが「平成22年度 日本企業の海外展開に関するアンケート調査」の結果を発表したという記事が日経ウェブに載っていました。
 いやおうなくグローバル化が進む中、中小企業にとっても海外との販路拡大や、海外展開の検討は現実的な視野に入ってくる課題になっています。
 それは確かにそうなのですが、それにしても「今後3年で海外事業拡大を図ると答えた企業は1年前より13ポイント多い69%と金融危機前を超え、過去最高水準に達した。」などとあるのを見るとホンマかいな?と直感的に思ってしまいます。

 実際にジェトロのサイトに飛んで確認してみると、何のことはない、このアンケートは日本国内のジェトロメンバーズ企業、すなわち、すでに海外展開を果たしていたり、海外との取引割合が大きな企業で、ジェトロの会員になっている企業を対象に行ったものであり、現在、海外に拠点を持っている割合がすでに66.2%もあるような企業群が調査対象なのです。
 従って、今後(3年程度)の海外での事業展開方針(新規投資、既存拠点の拡充)について、「事業規模の拡大を図る」と回答した企業が、前回調査の56.0%から69.0%に急伸していたとしても、それはすでに一定国際化している企業がさらにそちらに注力するということであって、繰り返しますがグローバル競争が浸透し、激化していく中ではこれらの企業にとって妥当で合理的な選択だと言うことができます。

 問題なのは、地域にあって、今までは大企業の協力企業(下請け)として、発注仕様書の通り安く大量に生産していた製造業のような中小企業、地域の狭い商圏に商品を卸していたような中小企業が、どうグローバル化に対処していくかです。
 技術力が認められている中小企業に対しては、発注企業から「お宅もはやく中国(の発注企業工場の近く)へ出て来い」と声がかかるというのはよく聞く話です。しかし、例えば中国に進出した中小企業のうち、7割はコスト競争に敗れたり、労務管理が困難だったり、中国特有の行政の腐敗や不透明に翻弄されたりして、進出が失敗に終わっているという話も耳にします。
 要は、情報源も人材も限られている中小企業にとっては、判断材料となり、基準となる、正確な情報が圧倒的に不足しているのです。

 中小企業にとっては、まずは海外展開か、あるいは国内での生き残りを図るのかの経営戦略構築が何よりも重要ですし、もし海外に展開すると結論付けたとしても、事業可能性の調査(フィージビリティ・スタディ)が重要なのは言うまでもありません。
 このあたりは、業種に関わりなく、ジェトロや商工会議所、三重県産業支援センターなどでも相談に乗っています。
 
 報道やブームに惑わされることなく、勇気を持って専門家や相談機関の門をたたいてみることが第一歩だと思います。

2011年3月7日月曜日

生まれ変わった 尾鷲お魚いちば「おとと」に行ってみた

 尾鷲の中心地を南北に縦貫する国道42号。紀北信金や尾鷲市民病院、さらに大型スーパーやホームセンターが建ち並ぶ賑やかな一角に、尾鷲お魚いちば おとと はあります。
 ここが3月3日にリニューアルオープンしたそうなので、早速、見に行ってきました。

 おととは、簡単に言えばドライブイン形式の大型土産物店です。日本有数の漁港を持つ尾鷲なので、特産品は魚介類や水産加工品が中心になります。
 尾鷲市は三重県東紀州2市3町で唯一「道の駅」がないので、このおととが事実上道の駅として観光交流機能を果たしていると思います。

 しかし、はんわしが尾鷲市民で、おととのすぐ裏の県立尾鷲高校の近くに住んでいた頃、実はほとんどおととに来ることはありませんでした。
 店内は薄暗く、干物や加工品がどーんと質より量といった感じで並べられており、おそろしく「売らんかな」の匂いが漂っていました。

 お客も観光バスの団体客が中心で、バスが着いて一度に何十人ものお客が店内に入ってくるとにわかに活気付くものの、帰ってしまうと一転、閑散として、何だか売り場としてあまり魅力がない場所でした。

 その頃からここでも尾鷲にしかない珍品は売っていたのでしょうが、平成19年に郊外に夢古道おわせができ、ランチバイキングや海洋深層水の温浴施設を始めると、おのずと足は夢古道おわせに向かうようになりました。

 そのような危機感はおととでも持っていたのでしょう。
 店内に一歩入ると、前とはまったく違う明るく、温かみのある雰囲気になっていました。
 商品の展示方法も、背丈ほどもある陳列棚はなくなり、基本的に平積みとなり、POPも付けられて商品が見やすくなっています。

 しかも、有名な大瀬商店の燻製といった尾鷲の特産品以外に、紀北町、熊野市、御浜町、紀宝町という東紀州一円の有名店、有名商品が一同に集められています。
 名実共に、東紀州のおみやげは何でもおととで揃う、という陣容になっていました。

 この日もおとと関係者とお話しする機会があったのですが、リニューアルオープンに合わせて店のコンセプトを尾鷲の商品だけでなく東紀州一円に広げるために、何百社もの生産者を訪問し、口説いて、取引を始めてもらったそうです。

 また、既存の業者には新商品の開発も積極的に進めてもらい、あるいはお客が気軽に試し買いできるように、サンマ寿司であれば一匹分、10切れもあるものでなく、3切れ入りで300円のような小口の商品も開発したそうです。

 もちろん、おととオリジナルのひものや加工品もラインナップされています。パッケージもかなり垢抜けしたものになっており、気のせいかおいしそうに見えます。

 しかし、何と言っても特筆すべきは、地元客、つまり尾鷲市民もターゲットにして、野菜や鮮魚、乳製品といった最寄品のアイテムも充実させたということです。このような売り場は、以前のおととにはまったくありませんでした。

 たまたまここで知り合いの奥さんに出合ったので話を聞けたのですが、魚は近くにあるスーパー、主婦の店セントラルマーケット店よりも安いものがあるため、昨日もここで魚を買ったとのことでした。

 こんなふうに地元に愛される店というのは良い方向性だと思います。

 尾鷲にも3年後に高速道路(紀勢自動車道)がやってきます。高速は尾鷲市内でいったん終点となるので、ドライバーは尾鷲北インターで下りて、国道42号、おととの真ん前を通り、市街地南部にある尾鷲南インターから再び自動車専用道路尾鷲熊野道路に乗って、熊野市や勝浦方面に行くことになります。
 ここで集客施設としての地位を再強化し、高速道路開通後もドライバーに認知されることが他の道の駅との競争に勝ち残る手段だと思います。
 まずは、その戦略は成功しているように見受けました。

 はんわしもここで色々な特産品を大人買いしてきました。
 詳しい商品レビューはおいおいこのブログでも紹介したいと思います。

 ■尾鷲お魚いちば おとと  http://e-ototo.jp/


2011年3月6日日曜日

久しぶりに徐福の宮に行ってみた

 三重県熊野市と尾鷲市を結んでいる国道は2つあります。一つは幹線である国道42号。これは矢の川(やのこ)峠と呼ばれる急峻な山地をトンネルで貫く最短ルートで、熊野市~尾鷲市の所要時間は約45分。
 もう一つはリアス式の海岸線に沿って小さな漁村をつなぎながら続いている国道311号線。こちらは急カーブとアップダウンの連続で、時間も1時間近くかかってしまいます。道幅が狭いところも多く、運転に自信がない方はちょっと苦労する道かもしれません。
 しかし、熊野灘を望む景色は抜群で、今日訪れた「徐福(じょふく)の宮」(徐福神社とも)もこの道路沿いにあります。

 熊野市波田須(はだす)という地名は「秦」(はた)、すなわちChinaを語源としているという説があるそうです。その根拠となっているのが、この地に伝わっている徐福伝説であり、その物的証拠としての徐福の宮です。

 徐福とは紀元前3世紀、当時の中国、秦(この場合は「しん」と読むのが一般的)の始皇帝に仕えた実在の人物です。
 始皇帝に対して「遠い東の海の向こうにある蓬莱の国には不老不死の妙薬があるそうです。私はそれを取りに行き、皇帝に献上したいので、部下を連れて航海に出ることをお許しください」と進言して許され、3000人もの家臣たちを連れて大船団で東シナ海に出帆しました。
 苦難の末に徐福たち一団がたどり着いた蓬莱の国とは、すなわち日本。なかんずくこの熊野の地だったとのことです。
  もっとも、徐福がたどり着いたという伝説は、台湾など中国の沿岸部をはじめ、日本の各地に残されていて、熊野市のほかにも和歌山県新宮市(ここにも立派な 徐福の廟があります)、宮崎、鹿児島、果ては富士山のふもとの静岡まで、全国津々浦々にあるようなので、どれが真実かを知るすべもないのですが・・・



 国道311号、熊野市街地からは波田須の集落をいったん通り過ぎたあたりに、徐福茶屋という小さな茶店が建っています。ここから熊野灘を見下ろすと、真下の集落の中心部に徐福の宮のこんもりした木立が見えます。
 道路は山手の高台を走っているため、ここからすり鉢状に急な坂を下っていきます。
 家々が段々畑のように斜面に沿って建ち並んでいるのは、まるで箱庭のようです。集落全部で30軒くらいはあるのでしょうか。



 徐福茶屋から歩いて数分で徐福の宮に着きます。真っ赤に塗られた鳥居が目を惹きますが、祠は意外に小さく、左隣に石碑が建っています。中央にある巨木はクスノキだと思われますが、樹齢数百年はありそうです。
 徐福が捜し求めた不老不死の薬とは、天台烏薬(てんだいうやく)なる薬木らしいのですが、その天台烏薬もクスノキ科だそうですから、何か関係があるのかも?しれません。
 境内には熊野市教育委員会が設置したらしい案内板があるのですが、風化により字が消えて全然読み取れません。なんだか・・・熊野らしい・・・。


 前回、2年ほど前にここへ来た時は秋口で、たいへん風が強い日でした。
 徐福の宮の木立全体が風を受け、木々が激しく揺られ、鳴いていました。
 波の音も聞こえてくるし、晴れてはいたのですが何だか壮絶な天気で、全くの妄想ながら、何千年か前に、船団がここへやって来たというのもあながち嘘ではないのではないか、と思うほどでした。
 山に囲まれ、海に面して生活してきた波田須の人々は、毎日毎日どんな思いで水平線の果てを眺めていたのでしょうか。

 今日は小春日和の暖かい日で、ウグイスが鳴くのを今年初めて聞きました。
 家々の庭には、梅が咲き、水仙が咲き、夏蜜柑がなっています。初春もまた、この地を訪れるにはいい季節です。
 みなさまもぜひ、熊野市波田須の徐福の宮へ。


 余談ですが、国道311号線は道路改良が進み、熊野市街から波田須へ到る区間は磯崎トンネルの開通によってかなり運転がラクになりました。なのでクルマでお越しになることをお勧めはしますが、1kmほど歩けばJR紀勢本線の波田須駅もあります。
 しかし、普通列車は2時間に1本しかなく、波田須駅(無人駅)のまわりには、人家が何軒かあるほかは、自販機も何にもないので、時間は事前によく調べておく必要があります。

2011年3月4日金曜日

入試投稿事件は大学側にも問題ありでは?

 受験生が入試問題を携帯電話でネットに投稿していた、いわゆる「入試投稿事件」ですが、報道を見る限り、さまざまな意見が交錯し、価値観がぶつかり合っているようです。

 大学やマスコミが騒ぎすぎだというのは確かにその通りで、被害届を出した京都大学には、大学側こそ入試監督が不行き届きだったのではないかという抗議の電話が数十本寄せられたそうです。まあ、そういう見方もあるのでしょう。
 抗議は年配者が多かったそうですので、「京大」とか「大学入試」とかに、ある種の特別な価値観を認めている人々が多かったのかもしれません。

 また、識者の意見では、生まれた時からネットや携帯電話があった、いわゆるデジタルネイティブ世代に対して、適正な使用方法を学校で教育するべきだというものも散見されました。
 しかし、現実問題として、ゆとり教育の見直しによるカリキュラムの増大化が学校現場では始まっています。とても「リテラシー教育」の余裕などないでしょう。そもそも学校の教員が若者にICTの正しい利用法が教育できるとは到底思えません。

 はんわしが思うのは、年配者の抗議とは違う意味での大学入試が持つ問題点です。
 入学試験とは、古代中国の科挙の頃から基本的にスタイルは変わっていないのではないでしょうか。
 正確な暗記力を試すためのペーパーテストという発想。多数の受験者が机に向かって答案を書くのを、少数の監督者が監視するというやり方。
 これは公平なやり方には違いがありませんが、高度成長期のようなキャッチアップ型の工業国だった頃ならともかく、現代の経済はサービス化しており、多様な価値観や柔軟な発想こそが重要だし、社会でも求められています。
 能率優先の画一的な入試スタイルも、そろそろ通用しない時代を迎えているということではないでしょうか。

 この対処方法は簡単で、ペーパーテストは最低限の知識を問う資格試験にして、本番の入試は面接による口頭試問にすればよいのです。
 例えば数学の問題を教員が英語で出し、受験生も英語で回答するようにすれば、一度に二科目の試験ができます。純粋な数学理論など世間では役に立たないのと同じで、教科横断的な複合的出題のほうが生活感覚に合っているわけですし。

 海老原嗣生氏も言うように、現在深刻な問題となっている若者の雇用ミスマッチの本質的な原因は、大学生が短期間に増えすぎて、企業のホワイトカラーの求人数をはるかに上回る卒業生を輩出していることにあります。つまり、日本はそもそも大学の数が多すぎるのです。
 今回の入試投稿事件も、国際的に見劣りがするという日本の大学の教学体制や、大学生の学力を強化するための絶好のチャンスと捉え、入試改革に対する大学側のまっとうな奮起と努力が求められているのではないでしょうか。 

2011年3月3日木曜日

尾鷲「松の湯」の廃業に思う

 尾鷲市内の数少ない銭湯の一つ松の湯が2月末で廃業したと報じられました。
 はんわしも尾鷲時代に何度か利用したことがありますが、本当に「レトロ」というコトバがぴったりな、古き良き尾鷲の下町を体現しているお風呂屋さんでした。懐かしく思い起こされます。

 一部には、公共施設である夢古道の湯によって客足が奪われ、閉鎖に追い込まれたという一種の民業圧迫の結果だと考えている向きがあるようですが、松の湯と夢古道では客層が全く違うのでこれは誤解ではないかと考えます。
 むしろ松の湯の廃業は、地方都市における典型的な自営業者の廃業パターンです。これを正確にケーススタディすることは地域産業の活力維持にとって非常に重要です。

 まず、現実問題として、銭湯や理髪店、クリーニング店といった生活衛生関連の事業所数は全国的に一貫して減少を続けています。
 特に銭湯は内風呂の普及によって、生活インフラとしての歴史的な使命はほぼ終えており、個人営業の銭湯は、利用者(地元住民)同士が裸でふれあうコミュニティの場として細々と営業しているのが現状です。
 地元顧客の人口は減少し、かつ高齢化しているので、ごく普通のビジネス論として考えれば、生き残りの方法は、スーパー銭湯のように規模のメリットを生かし、消費者の嗜好に対応した高度で多様なサービスを展開して商圏を広げる以外にないことになります。
 しかし、個人営業の場合は経営規模も零細で、新規の設備投資は難しく、新しいビジネスモデルを創造することはもっと困難です。
 馴染みのお客相手に、自分の体力と気力が続くまでは営業するが、病気をしたり何かのきっかけがあれば、跡継ぎもいないし自分も高齢だし、商売はたたむつもり、という個人事業主は非常に多くいるのが実態でしょう。
 個人事業主の多くは、終戦直後の混乱期に商売を始めたり、継いだりした経営者です。昭和20年代には青年だったとしても、平成の今、彼ら彼女らはもはや70歳代後半なのですから。

 かつての高度成長期、農山漁村から多数の若者が大都会をはじめ都市にやってきて就職し、家庭を持ちました。
 彼らは都市住民ではありましたが、生まれ育った田舎の生活様式や住民感情をよく理解していました。政治的・経済的な所得の再配分が田舎に手厚く、都市部に薄く行われても、そのことに納得していました。社会的な暗黙知により合意が成り立っていたのです。
 しかし、都市住民が二代目に代替わりし、三代目ともなると、もはや「田舎」は意識の外です。行ったこともない戸籍謄本の本籍地が、記号として記憶されているだけです。今の田舎と都会の格差問題の本質はこの世代交代にあります。

 このスモール版が今、全国の商店街や中心市街地で起こっているのです。都会VS地方都市だけでなく、都会内部、地方都市内部、それぞれでの世代交代の進行です。
 かつて地方都市でも中心地には商店や町工場や家屋が密集し、たくさんの大家族が肩寄せ合って暮らしていました。しかし、都市が拡散し郊外化すると、郊外で生まれ育った二世三世は中心市街地への関心や懐古を失ってゆきます。
 狭くて、薄暗くて、いつもひと気がない。こんな商店街や中心市街地を何のためにいつまで保っているのかが理解できなくなるのです。
 そういった住民が地方都市でも多数派になってくると、都市のエネルギーはますます拡散し、薄れてゆき、焦点が定まらなくなってゆきます。
 特に尾鷲のように人口2万人、商圏規模が3万人という地方都市において、生活衛生事業をはじめ、スモールビジネスの退潮は、今後加速度的に進んでくるのではないでしょうか。

2011年3月2日水曜日

好きな場所 イオン

 2月27日、日曜日、夜。
 わしはジャスコ伊勢店に向かっていました。財布にはもちろんイオンカードが入っています。

 2月は30日がないので、ジャスコお客様感謝デーが通常は27日になるのですが、今回は3月1日から店名が全国的に「イオン」に統一されるということで、特別に27日にも延長されていたからです。

 ハッキリ言って、買う気まんまんでした。
 これから雨の日も増えるので、そろそろ新しい傘がほしい。
 革靴もへたってきたし、ここいらで新しいのを。
 冬物も売れ残りが安くなっているかもしれない。
 などと考えて、店内に入ったのですが・・・気に入ったものがない。色がイマイチ、値段がちっとも安くない、欠品・・・

 売り場はこれだけ広く、さまざまなアイテムであふれかえっているのに、欲しいものだけがないのです。

 ジャスコという、高度成長時代の華々しい消費者革命、流通革命の一翼を担ったブランドは間もなく姿を消しますが、同時に総合スーパー(GMS)の限界も強く強く心に刻まれた一日でした。
 
 イオンに変わるのはジャスコだけでなく、旧ニチイグループのマイカルやサティなども同時に名称が改められます。

 そう言えば、先週買い物に行った津サティも屋上の看板を改装工事していました。(バス停の名前は、今日もなぜか津サティのそのままだったのですが)

 皆さんはどう思われるかわかりませんが、はんわしは、マイカルはビブレに比べるとちょっとオシャレ度は劣るものの、目新しいもの好きなスーパーというイメージです。
 15年ほど前にできたマイカル桑名は、滋賀県や岐阜県からも来客が引きもきらないという破壊的な商圏の広さで「マイカル渋滞」とよばれる現象を引き起こしました。

 バブルの匂いがまだ残る時代。ジャスコとは一線を画した新しいスーパーの時代を予兆させました。
 そして今、イオンへの回帰。

 これがマイカルやサティの「ジャスコ化」であるとすれば何だか寂しい気がします。

 巨大化したイオンが画一化するのか(しかもどういった方向性に?)、それともさらに多様性を進めていくのか。イオングループ(旧ジャスコ、マックスバリュ中部)だけがほぼ唯一の巨大商業インフラである三重県の一住民は注目しています。

2011年3月1日火曜日

EVベンチャーのゼロスポーツが破産・・・

 岐阜県各務原市にある電気自動車(EV)メーカー ゼロスポーツが、12億円あまりの負債を抱え、近く破産を申し立てることがわかりました。
 同社は94年に設立され、国内13番目の自動車メーカーとして電気自動車の研究開発に取り組み、日本最速の時速276キロのEV開発に成功し、中島社長は一躍ベンチャーの雄に躍り出ました。
 はんわしもお目にかかったことがあったのは以前このブログにも書きましたが、EVで世界を変える、という熱い信念と強い意志をお持ちの方と感じました。

 ゼロスポーツが全国区になったのは、昨年8月に日本郵政グループの郵便事業会社から集配車用の改造EV1000台を約35億円で受注したことです。おりから、三菱のアイミーブや日産のリーフが話題になっていた頃であり、いよいよ電気自動車時代の本格到来と思ったものでした。

 しかし、今年1~2月の納期に間に合わず、郵便事業会社から契約を解除されたとのこと。2月には約7億円の違約金を請求され、さらに金融機関からも資金の返済を迫られて資金繰りが急速に悪化したとのことです。

 ベンチャー企業には、魔の川、死の谷、ダーウィンの海という3つの難関があるそうです。技術シーズが研究開発やマーケティングを経て試作品になり、製品になって、いよいよ市場に出て行くというタイミングになると、量産体制の確立や、それにともなう資金管理といった最終的な難関が立ちふさがります。
 ゼロスポーツも、高い技術を持ち、EVが市場の要請に応える製品であったにもかかわらず、最後の量産化の段階で躓いてしまったということなのでしょうか。

 たいへん残念な結果になってしまいましたが、ここからは消費者、もっと言えば国民に起業家からボールが投げ返されたと認識するべきだと思うのです。
 すなわち、一度失敗したとはいえ、有能で無限の可能性があるベンチャー起業家に再チャレンジの機会を与えるかどうか。
 もちろん債権者の方にとっては腹に据えかねる出来事でしょう。それは理解できます。
 しかし、日本がキャッチアップ型の「工業国」から21世紀の世界経済において先頭集団を走り続けるためには、金融機関や債権者、行政をはじめ、国民が、起業家の失敗を許容する世の中がどうかが試金石になるのですから。